マンシュタイン前

前回はハイテンションヒゲ伍長(ドイツ語だとヒトラー総統)がフランス侵攻を本気で考え始めた直後の状況を見ました。彼はベルギーの海岸線沿いからフランス北部に侵攻、あとオランダの海岸線も抑えとけ、という基本方針を陸軍の総司令部に押し付け、早期の作戦立案を命じたわけです。まあ、例によってすぐに気が変わっちゃうんですが、とりあえず最初は北の低地地帯からの進撃と、イギリスとの連絡を絶つためのオランダを含む海岸線の占拠で頭が一杯だったと思われます。

それに応じる形で作戦立案の総責任者である陸軍の参謀総長、数学大好きハルダー砲兵大将が1939年10月19日に第一案を作成、さらに29日には早くも第二案も完成させ、軍の総司令官、一番偉い人の立場にあったヒトラーに提出しています。その内容は既に見たように第一次世界大戦の焼き直しと言っていい、以下のような作戦計画でした。



北に配置されたB軍集団を主力となし、海岸沿いの平野からフランス北部に攻め込む作戦です。何度か改変されてるのですが、大筋でこんな感じで、とにかく北のB軍集団が主力としてフランス北部に突入する、それを南のA軍集団が援護する、という形になっています。ついでにB軍集団の一部を北に回し、オランダも占領しちゃえ、という所ですね。オランダ侵攻を別にすると、第一次世界大戦時のドイツ軍主力と同じような進撃路であり、当然ながらこの作戦は敵に読まれてました。英仏連合軍は同じく北の平野部にその主力を集結させ、これを迎え撃つ気だったのです。

さらに触れて置くと、後にドイツ軍にとって決定的な勝因の一つとなった機甲戦力、特に戦車の集中運用の考えも全く無く、戦車は歩兵部隊の援護任務のため、各軍集団と軍に分散配備されてました。戦車の分散配置は後に敗北するフランス軍の最大の弱点になるのですが、当初はドイツ軍も同じ事をやっていたのです。この点は機甲番長グデーリアンの強い進言で、後に改められる事になります。

さて、この凡庸と言っていい、どう見ても両軍の主力が真正面からぶつかり合って物量戦、そして長期戦になりそうな作戦計画はA,B,C各軍集団の参謀部にも通達されます。そしてこれを受け取ったA軍集団の参謀部で参謀長を務めていたのが、あのマンシュタインだったのです。彼はこの作成案を見た瞬間、その凡庸さに驚き、同時にもっといい作戦案、歴代ドイツ参謀本部大好きな高速機動による包囲殲滅戦に持ち込める作戦を瞬時に思いついたのでした。1939年10月21日の事だったとされるので、第一案がヒトラーに提出されてから二日後の事でした。

マンシュタイン登場



■Photo:Federal Archives
 
ドイツの最強将軍軍団の一人、マンシュタイン(Manstein)閣下。写真は先に見たグデーリアン閣下と同じ1938年に撮影されたもので、この年に何か記念撮影大会でもやってたんでしょうかね、ドイツ陸軍。帽子無しの写真が有名ですが、帽子アリの写真も撮っていたのよ、という事でこちらを掲載して置きます。

フルネームだと、Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein、とそもそもVonが二回も入ってる寿限無寿限無な名前なんですが、普通はエ−リッヒ フォン マンシュタイン(Erich von Manstein)で通じます。フォン(von)の名から判るようにプロイセン貴族の軍人家系の出身でした。家柄は悪くなく、さらにヒンデンブルグと姻戚関係にありました。あの第一次大戦におけるドイツ軍英雄にして(ただし例のタンネンベルクの包囲殲滅戦など、その戦果の半分近くは部下のルーデンドルフの能力によるが)、戦前最後のドイツ大統領のヒンデンブルグです。同時にヒトラーを首相に指名しちゃった人でもありますね(おそらくマンシュタインの叔母の夫がヒンデンブルグだと思うが養子などの関係が複雑すぎて良く判らん部分あり)。

ちなみに第一次世界大戦中、そのヒンデンブルグ叔父様と配下のルーデンドルフはドイツ皇帝のヴィルヘルム二世から大幅な権限移譲を引き出し、それを盾とした政治的な暴走で事実上の軍事独裁政府を作り上げちゃってます。これが大日本帝国のお馬鹿さん軍人さんが、昭和の軍事国家を形成しちゃった時の参考になったんじゃないか、と個人的には思っています。明治憲法を盾に軍は天皇陛下の直属機関であり議会政治から独立している、と主張して暴走して行く統帥権問題ですね。ただし、その辺りの研究は未だにほとんど見たことが無いですが。

話をマンシュタインに戻しましょう。
早くから優秀な人物として陸軍内では知られていたようで、第一次世界大戦後の軍人大幅削減の中でも生き残り、第二次大戦直前の時期には参謀総長の座に就くだろうと見られていたようです。ちなみに陸軍総司令官の方が立場上は上ですが、参謀総長が作戦立案の権限を握るので、事実上の軍人のトップと見なされていたようです。まあ、後になんでもかんでもヒトラーが自分で判断する事になって、総司令官も参謀総長もほとんど意味が無くなってしまいましたが。

ところがヒトラーによる陸軍内の人事干渉に巻き込まれ、前途有望だったマンシュタインは参謀総長の座を例の数学大好きハルダーに奪われてしまいます(ちなみにハルダーの方が三歳年上の先輩)。その後、A軍集団のルントシュテット配下の参謀長になるのですが(当然、参謀総長ハルダーの配下でもある)、このため参謀総長ハルダーとマンシュタインは犬猿の仲だった事を知って置いてください。ハルダーは数学は大好きですがマンシュタインは大嫌いだったのです。この点が後にマンシュタインの立場に大きな影響を与える事になります。

さらに言うなら、ハルダーは後にヒトラーと対立、終戦時には逮捕され身柄を拘束されていたため、反ヒトラー勢力と見なされ、戦後、連合国側から厚遇されます(戦犯にならずニュルンベルク裁判にも被告として召集されてない)。さらにドイツ陸軍の参謀総長まで務めた人物なので彼の証言や記述が重要な証言として数多く残される事になりました。このため英語圏の資料などにはハルダーの証言がバンバン取り入れられたりしてますが、かなり自分に都合のいい内容を述べている事があり、ドイツ側の資料と付き合わせると明らかにオカシイものも多いので要注意です。何度も書いてますが、英語圏以外の事象を追うのに英語圏の資料を鵜呑みにしちゃダメよ。


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