■黄色の事例

ポーランド戦が予想以上に上手く行ってしまった結果、庶民派ハイテンションヒゲ伍長、ヒトラー閣下は速攻で対フランス戦の開始を決意、当初はポーランド戦終結から約二か月後、1939年11月25日にごろには開戦する気だったと言われています(ただしこの日付は戦後の関係者らの証言によるもので公式文章などでは私の知る限り確認できない。後で見るように総統指令では可能な限り早く、と述べてるのみ)。この辺り、ヒトラーのお調子者な性格もあるでしょうが、国力、産業構造、資源、といった戦争に必要なあらゆる面から見て長期戦は不利、そのためには連合軍(まだアメリカは関わって無い)に準備期間を与えず、速攻で攻勢に出ねばならぬ、という筋の通った考え方でもありました。

ただしドイツ軍は全面戦争の準備は全く出来てませんでした。そもそもポーランド戦に全力を投入してしまったためドイツ国内を横断して西部に軍勢を移動させながら砲弾、食料の再補給が必要だったのです。さらに兵器、兵員の損失の補充も避けられませんでしたからとても時間が足りませぬ。それらに加えて軍上層部全体がフランス戦に反対だったこともあって、攻勢開始は何度も延期され(「電撃戦という幻」によると29回の延期があったとされる)、最終的に翌1940年5月に対フランス戦は開始される事になるのです。

とりあえずヒトラーはポーランド降伏直後に、戦争遂行に関する総統指令第6号(1939年10月9日発令 Weisung Nr. 6 für die Kriegführung) を出し、対フランス戦の作戦立案を各軍の司令部に命じています(第三項目 ちなみに第二項目ではイタリアは当てにならん、と述べてる…。この段階で既にそう思っていたのね…)。ざっと必要な部分を要訳すると、

●ルクセンブルク、ベルギー、オランダ方面への攻撃作戦を準備せよ。可能な限り早期に強力な打撃を与えねばならない。フランス北部にも打撃を与えねばならない。
●可能な限り広い海岸線を占めるようにオランダを占領し、ベルギーにも進出せよ。その作戦準備は偽装し、気付かれてはならない。
●各司令官は以上に基づいた作戦計画を可能な限り早く提出せよ。

ここでヒトラーはフランス全土の占領を目指しておらず、低地諸国からフランス北部のみを占拠しイギリスとの連絡を分断する事だけを考えているのに注意してください。誇大妄想癖のあるヒゲ伍長ですら、まさか約一か月でフランスが降伏する戦争になるとは思ってなかったのです。それほど電撃戦は衝撃的な戦いだったという事になります。

ここでドイツ軍の指令系統を再度確認して置きます。



すでに述べたようにヒトラーは三軍の総司令部を直轄していたので、それぞれの参謀総長が作戦を立案後に、直接提出したと思われます。後の総統指令を見ると空軍、海軍も独自に作戦を提出していたようですが、筆者はこれを見たことが無く、重要でも無いのでここでは無視します。対フランス戦、それと連動する低地諸国への侵攻作戦ですから、当然、その中心となるのは陸軍でした。このため、対フランス戦の作戦立案を事実上担当したのは、陸軍の参謀総長であるハルダーとその配下にある愉快な仲間達となります。

その陸軍総司令部(OKH)による作戦案「黄色の事例(Fall Gelb)」は10月19日に提出されたようです。ヒゲ命令からわずか10日後、驚くべき突貫作業であり、後で見るように、当然のごとく適当な内容の作戦でした(笑)。ただし当初ヒトラーは1939年11月に対フランス戦の開始を予定していたと言われてますから、事実ならこれがギリギリのタイミングだったのです。ちなみにドイツ軍の作戦名は妙なものが多いですが、今回もなんで黄色なのかはよく判らず。

さらにハルダーからの計画案を受けた後(「電撃戦という幻」によると10月29日に既に作戦案第二弾が提出されている)、11月15日に通算番号無し(7号と8号の間に出た)の総統指令「黄色の事例作戦について」(Berlin, den 15.11.1939 Betr.: Operation „Gelb“ )で、ヒトラーは以下のような命令を出してます。

●ドイツ軍がオランダ南部を通過して侵攻した場合、オランダの中立を無視して連合軍が進駐する可能性がある。これはルール地方と北海沿岸にとって脅威となる。よってオランダ領北部、とくに要塞地区の前面を占拠せねばならない。この点について海軍はオランダ領の島々の占領に協力せよ。

そして以後もオランダとベルギー(特にオランダ)にこだわった総統指令を連発しており(8号と8号の追加指令など)、ヒトラーも北の海岸線一帯、例の低地部分からの突破以上のアイデアを持っていなかった事が伺われます。さらにこれ以降、軍部の強硬な反対に加えて天候の悪化、ヒトラー本人の気まぐれ等で作戦は延期を重ねる事になり、ハルダーの提出する作戦案も次々と進化と言うか「変化」して行く事になります。ただしどれもこれも同じような内容なので、大筋の内容のみをここで確認して置きましょう。

ちなみに上の図にあるように、当時のドイツ陸軍はそのほぼ全戦力をA、B、Cの軍集団(Heeresgruppe)に振り分け、これを陸軍の総司令部の配下に置き、各軍、各師団には軍集団司令部を通じて命令が行われました。対フランス戦ではオランダ国境付近の北部地帯にボック上級大将率いるB軍集団、その南、ベルギーとルクセンブルクの国境地帯にはルントシュテット上級大将率いるA軍集団、そして最南端のマジノ線周辺部にはレープ上級大将率いるC軍集団が配置される、という構造は最後まで変わりませんでした。



1939年の年末までに数学大好きハルダー参謀総長率いる陸軍総司令部が提出した作戦案は多少の差はあれ、基本的にこんな感じです。

レープ上級大将率いるC軍集団は戦力的にやや貧弱だったので、基本的にオトリ部隊とされマジノ線の正面に置かれました。これは後のマンシュタイン案に至るまで変わりません。マジノ線に居るフランスの兵力をここに釘付けにするのが主要な任務であり、攻勢には加わりません。万が一、フランス軍がマジノ線を放り出して北上しちゃった場合のみ、これを追撃する事になりますが、ドイツとの国境をガラ空きにする事は考えられませんから、その可能性はほぼゼロだったと思っていいでしょう。

各作戦案はB軍集団とA軍集団の役割と戦力割り当てが異なるのですが、1939年中にハルダーがヒトラーの要請に応えて提出した作戦案は上のように戦力を分散しながらもB軍集団が主力として低地諸国に雪崩れ込む、という点でほぼ同じようなものでした。上図は第二案とされるものを基にしてますが、この後、先に見たようにオランダの海岸線一帯への侵攻をヒトラーが求めたため、さらに戦力が分散される事になります。このためオランダとの国境から突入するB軍集団が全体の主力となり、北の平地地帯から馬鹿正直に主力部隊が進撃する作戦案となって行きます。

前回も述べたように、これはシュリーフェン計画にまで遡るドイツのお家芸作戦でしたから、当然、英仏連合軍は完全に予測していました。よってこのまま作戦が決行されたなら、両軍の主力が北部平原地帯で正面からぶつかり合う、第一次世界大戦の時と全く同じような展開となり、無意味に多数の人命が失われる総力戦となったでしょう。そうなった場合、国力、軍事力で完全に劣るドイツ軍に勝ち目は無かったと思われます。

その悲劇を避けられた理由は二つあります。まずはA軍集団の参謀長にマンシュタインが居て、10月21日には最初のハルダーと愉快な仲間たちによる作戦案を受け取り、あまりの凡庸さに衝撃を受けた事。そしてその凡庸さの最大要因だったハイテンションなヒゲ、ヒトラーが自分の考えに飽きちゃって気が変わった事でした。この点は次回、詳しく見て行きましょう。

では今回はここまで。


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