電撃戦が産まれるまで

最初に述べたように、電撃戦は狙って開発されたものではありませぬ。そもそもはドイツ参謀本部伝統の高速包囲殲滅戦を狙った戦術でした。ところが、実際にやって見たら敵にパニックを引き起こし、ほとんど戦わずして勝ちまくり、最終的に地滑り的な大勝利を引き起こしてしまったのです。すなわち本来なら戦争に使うレーダー用マグネトロンを開発していたのに、結果的に電子レンジまでできちゃった、というのに近いものがあります。

よって誰が最初に考えたとのだとか、歴史的な発展といった問題はそもそも存在しません。偶然、そして突然、そこに産まれてしまった戦術なのです。それまでも戦車や歩兵運搬車両を用いた機械化部隊による高速戦闘は研究されていましたし、ノモンハンで日本軍が地獄を見たジューコフの機甲戦のようなものもあったのですが、どれも電撃戦ではありません。それは単に機械化部隊による高速戦闘です。よってこのお話ではそこら辺りは取り上げませぬ。電撃戦は理論的な探求の先に産まれたのではなく、ペニシリンのように偶然の産物として発見された、と思っていいからです。

なのでまずは電撃戦を産む切っ掛けとなった、第二次大戦におけるドイツの対フランス戦計画から見て行きましょう。
ナチス党の支配するドイツは1939年9月1日、東のポーランドに対し侵攻を開始、わずか一カ月足らずの戦闘でその西側を占領してしまいます。これに対しイギリス、フランスはポーランドとの相互防衛条約を基に宣戦を布告、第二次大戦が始まったのです。ちなみこの頃はまだナチスのマブダチ一号だった(イタリアが二号、スラブ人以下の劣等民族である日本はだたの舎弟)ソビエト連邦も17日になってからポーランド東部に軍事侵攻を行っています。すなわちポーランドは東西から、ドイツとソ連に同時に侵略を受け分割支配されたのでした。ただし英仏連合軍はソ連に関しては何ら行動を起こしてません。この不可解な点は条約において「hostilities with a European Power(敵対的な欧州列強勢力)」とだけ定義されいている前提条件が、秘密協定ではナチスドイツと明確に定義されていたからソ連は対象外となった、というのが定説。まあこの時期はとにかくナチスドイツ対策が最優先でしたからね。実際のタチの悪さではスターリンと不愉快な仲間たちのソ連もほぼ一緒だったのは歴史の皮肉でしょう。

ただしポーランド戦中、海の向こうのイギリスはもちろん、お隣から無防備な背後を襲えたはずのフランスも具体的な行動には出ませんでした。このためドイツ軍は対ポーランド戦に速攻で勝利してしまいます。これを見たハイテンションな庶民派ヒゲ伍長、ヒトラーはフランス侵攻を本気で考え始め、その結果として1940年5月に電撃戦が起きる事になるのです。
ちなみにその直前、1940年4月にはデンマークに対して世界新記録の高速で勝利(全軍停戦まで約1時間半、降伏受け入れまで約4時間。未だに世界記録かもしれない)、ノルウェーの戦いもドイツに有利に進んでおり(後にフランス戦中に降伏)、ヒゲの庶民派伍長絶好調の時期でした(厳密にはヒトラーは伍長では無い、というか下士官でも無い。ただし下士官の仕事を代行する上等兵という他の国に無い階級だった。よって面倒なのでここでは伍長で通す)。

さで、電撃戦を理解するにはドイツとフランス、そしてオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの低地諸国の位置関係、そして地形を理解する必要があります。以下がそのための地図です。ただし国境線は1939年の段階のものながら海岸線は現代の物なので厳密には当時とは異なります。まあ今回のお話では特に問題にならないので忘れましょう(オランダ周辺で埋め立てが進んだ)。



地図 国土地理院 国境線、国名、その他を追記して使用

地図の右がドイツ、左がフランスで、北部で両者に挟まれる形になっているのが低地諸国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクです。 ちなみに英語のThe Low Countries から日本語でも低地諸国と呼ばれますが、実態は異なります。いつも大変お世話になっております国土地理院地図様におかれましては、緑の部分が低地、黄色が丘陵部(標高200〜500m)オレンジ色の部分が山地(600m〜)となっています。なので低地諸国三国の内、ホントに低地にあるのはオランダのみで、ベルギーの南東部は山地も含む丘陵地帯、ルクセンブルグに至ってはほぼ低地はありませぬ。

そのルクセンブルクの南からドイツとフランスは国境を接するのですが、ほぼ全て丘陵地帯となっています。ストラトスプールからフランクフルトに抜ける盆地がわずかな平地として存在しますが、国境線上で見ればごく狭い10q前後の場所であり、その南には標高1000mを超えるヴォージュ山脈がスイス国境のアルプス地帯まで広がるのです。

さらに第一次世界大戦時にドイツに攻め込まれた経験から、フランスはドイツとの国境線にコンクリート要塞による防衛線、マジノ線(Ligne Maginot)を構築していました。ちなみにイタリアも信用して無かったフランスはこちらとの国境線にも要塞戦を築いており、こちらはアルパイン線(Ligne Alpine)と呼ばれています。ただしイタリア国境は山地であり天然の要害一帯だったので対戦車戦などの心配が無いため、アルパイン線はマジノ線に比べてやや簡易な構造となっています(厳密に両者を分ける基準は無く、両者まとめてマジノ線と呼ばれる事もある)。


■Photo:Federal Archives

こういったコンクリート製の強力な要塞が要所ごとに設置されていた恒久建築による防衛線がマジノ線でした。ちなみにマジノは建設を推し進めたフランスの陸軍大臣の名前です。1928年から開戦に至る1940年まで延々と建設が続けられながら、ドイツと戦争になったら何の役にも立たなかったため、フランス語圏では無用の長物、役立たずの意味でマジノ線という呼称を使う事があるそうな。
写真はドイツに降伏した後、1940年8月に撮影されたもの。一帯ではそれほど盛大な戦闘は無かったはずですが、この要塞部は砲撃を受けたと思われる損傷が見られます。余談ながら後にノルマンディー上陸によって連合軍がフランスを奪還、さらにドイツ国内に殴り込もうとした1944から45年にかけてドイツ軍がこれを防衛施設として利用してます。詳しい記録を見たことが無いので、この時、どの程度役に立ったのかは不明ですが。

さて、こうした事を知った上で再度、この地図を見てください。



ドイツとフランスが直接国境を接する一帯は山地と丘陵という地形であり大軍による突破に向かないのに加えて、その先に偏執狂によるコンクリートの悪夢、マジノ線が控えているわけです。普通に考えてドイツ・フランス国境線の突破は無理でしょう。ただしマジノ線は、北のベルギー国境沿いでは、かなり簡素な物となっていました。とりあえずルクセンブルク国境まではフランスが守る、とキチンと建設されたのですが、そこから先、ドーバー海峡に至るまでのベルギー国境線はやや貧弱な構造となっていました。この辺り、ドイツが攻めて来たらベルギーが頑張ってくれるだろう、という期待によるものだと思われます。第一次世界大戦の時はベルギー頑張りましたしね。ただしこの油断をドイツ側は把握していたため、後にこの弱点を突かれる事になるのです。

とりあえず以上の条件から、ならば北の低地諸国、中でもオランダとベルギーの低地地帯を突破すればいいのでは、というのは誰もが思いつく所。実際、第一次大戦の時、ドイツ軍の主力が突破した経路もここでした。以下の地図はその経路を示したものです。開戦時のドイツ軍は、西部戦線に第1から第7軍までを配置してますが、主力の第1軍、その側面を援護する第2軍までが主戦力と呼べるものでした。その他の第3から第7軍までは補助的な存在なので、ここでは無視します。



第一次世界大戦の時のドイツ軍は政治的な配慮でオランダ領は通過せずベルギーとルクセンブルクの領内だけを突破しています(地図では省いた第3、第4軍がルクセンブルクに侵攻、フランス領まで突破した)。この結果、オランダは最後まで中立を維持、参戦してません。ドイツ軍はそのままパリ方向に南下し、そこから東に向かってフランス軍を包囲するつもりでした。ただし、数百km単位の包囲殲滅戦と言う、そもそも無理がある計画であり、さらにベルギー軍が予想以上に頑強に抵抗したため、その作戦はかなり早い段階で躓くことになるのです。

この時の進路、北の低地を突破してフランスに雪崩れ込む、というのを考えたのがドイツの参謀本部の重鎮、シュリーフェン(Schlieffen)でした。後にシュリーフェン計画の名で知られる事になる作戦計画ですね。両者ともに人間性に欠陥を抱えるフランス人とドイツ人は犬猿の仲だったため、ドイツ側は常に対フランス戦を想定していたのです。シュリーフェンはその死の前年、1905年に対フランス戦の基礎戦術を策定、以後、ドイツは第一次世界大戦に至るまで、この計画を土台に侵攻計画を練る事になります。ただし第一次世界大戦時に採用された作戦は大まかな動きこそシュリーフェン計画に沿っていますが、細部はほとんど別物です。例えばシュリーフェン計画ではオランダを突破してもっと北から侵攻する予定でした。まあ、いずれにせよ、今回のお話には関係ないので、ここでは細部には触れないで置きます。とにかく第一次世界大戦の時、北の低地諸国からドイツ軍の主力が雪崩れ込む事を計画し、そして実際にそこから突入したのだ、という点だけを見て置いてください。ちなみに第一次世界大戦時にも兵の移動と集結にドイツ軍は鉄道を活用しています。というかこの時代のドイツの鉄道はほぼ軍事活動のためで、なんでこんな場所に鉄道が、というとそれはフランス国境に近いから、という例が幾つか見られます。

ちなみにシュリーフェンは包囲殲滅戦の芸術、あのハンニバルによるカンナエの戦いの大ファンであり、ドイツ参謀本部における包囲殲滅史上主義の基礎を築いた人物の一人です(厳密には完全な包囲ではなく側面からの攻撃を重視しているが)。

彼の論文である「カンナエ(CANNAE)」は戦術論の古典で基本史料の一つであり、現在では米陸軍などが英語版を公開しているので一読をお勧めします。ちなみに題名はカンナエですが、実際はヨーロッパの戦史研究の論文です。ついでにあれだけドイツ大好きキチガイだらけの日本帝国陸軍で、この論文が教材にされたという話を私は見た事ないんですが、理由は知らぬし知りたくも無し(ちなみに石原莞爾はドイツ留学中にシュリーフェンの孫を訪問、多数の文献を見せてもらってるから知っていたはず。だが第一次世界大戦は持久戦、消耗戦になったんだから以後の戦争もそれでオシマイ、としてしまったこの男は見逃したと思われる)。

こういった歴史的な背景もあり、第二次大戦の開戦時には、ドイツも迎え撃つ英仏連合軍も、このオランダからベルギー至る一帯の平地が主戦場になると考えていました。実際、自称天才のヒトラーは当初、そういった作戦の立案を陸軍の参謀本部に求め、数学大好きハルダー参謀長率いる陸軍総司令部(OKH)もそういった作戦を立案したのです。凡庸と言っていい作戦であり、これを迎え撃つべく準備に入っていた連合軍の主力と真正面からぶつかり合う、創意も工夫も無い、第一次世界大戦の消耗戦を繰り返す事になる作戦だったと言っていいでしょう。

ところがいくつかの偶然と必然が重なり、作戦は大きく変更され、それが電撃戦の誕生に繋がって行くのです。このドイツ側の作戦変更には二人の人物が絡んでいました。凡庸な作戦立案に関わりながら例によって途中で気が変わったヒトラー総統とドイツ軍の切れ者将軍、マンシュタインですね。後にここに疾走する機甲部隊指揮官グデーリアン、横を見たらなぜか知らんが一緒に走っていた謎の師団長ロンメル将軍が加わり電撃戦は完成する事になります。

次回はその辺りの紆余曲折を見て行きましょう。といった感じで、今回はここまで。


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