アメリカ空軍を戦略空軍の夢想の中から叩き起こし、F-15、F-16の開発を主導、A-10の開発にも貢献したジョン・ボイドの物語はすでに「F-22への道」の連載の中で見ました。

「F-22への道」の中では彼の空の戦いに与えた影響、戦闘機開発の革命を見たのですが、ボイドという人は全く同じ程度の衝撃をベトナム後の迷走するアメリカ海兵隊の戦術に与え、その結果、今度は世界の陸戦の様相を一変させてしまいました。よってこれも見なくては片手落ちとなるのです。今回の記事ではその「陸戦の戦闘理論を革命したボイド」を見て行く事になります。…多分。



■空軍去りし後のジョン・ボイド

戦略空軍最後の悪夢、B-1爆撃機との対決を終えた彼は、1975年の夏に48歳の大佐として空軍を退役します。
ところが彼は退役空軍士官のお決まりコース、軍需産業への天下りはやらず、そのまま引退生活に入ってしまうのです。勤続24年を超えていたので既に軍人年金をもらえる条件を満たしており、それによって生活していくことにしたからでした。

散々、新型機の設計に関わった彼ですから、天下り先はいくらでも探せたはずですが、これをしなかったのです。まあ、上層部の将軍連中とさんざん衝突したので、現実的にはいろいろ難しかった、という面もあったでしょうが、少なくとも本人はかなり早い段階で天下りを拒否してたのは事実です。

その理由は彼の知的好奇心を満たすために時間が必要だったからで、その“知的探求”の終着点の一つが「戦術&戦略」の研究でした。ただし当初、本人の興味は地上戦に無かったのですが(人間が航空戦でどう考え、どう行動するかから人間の思考と行動に興味を持っていたように見える)、本人曰く「偶然(an accident)に」その世界に踏み込み、そして今度は世界の陸上戦を一新してしまう事になります。そこで新たな戦闘理論を組み上げる道具として使われたのがOODAループでした。ちなみにOODAで「ウーダ」と読みます。

ついでながら、エネルギー機動性理論発見のきっかけとなった熱力学との類似に気が付いた時も、ボイドは「偶然だった(By accident)」と言ってますから、生涯にこれだけ「幸運な発見能力」、いわゆるセレンディピティ(serendipity)に恵まれた人も珍しい気がします。ただし、その発見は本国アメリカでも21世紀に入って10年以上経ってから、ようやく再発見されつつある、という状況なのですが。
(以上のボイドの発言は空軍が記録したボイド本人による口述史(Boyd Air Force oral history)による)

ちなみにこの記事は2018年まで旧版の「F-22への道」の中に組み込まれていた内容でした。その後、同記事の全面改訂にあたり別記事として独立させたものとなります。ただし「F-22の道」の新版全面改訂が終わった後も、1年近くほったらかしになっていた理由は筆者の怠慢と同時に、新しい資料の登場でした。

「F-22への道」の中でも触れたように、従来、ボイドに関しては2002年に出版されたロバート・コラム(Robert Coram)による伝記、「BOYD」くらいしかまともな資料がありませんでした。この本はボイドの伝記としては十分以上の内容を持つ必読書ですが、ボイドの考えた理論的な体系の解説に弱い、というか恐らく筆者はまともに理解できてない、という弱点がありました。
エネルギー機動性理論は物理法則なので伝記作者の手に余るのは判るのですが、OODAループを利用した戦闘理論に関してもかなりお粗末で、どちらの記事もほぼ参考になりませんでした。

が、2018年の元旦とういう妙な日付で、アメリカ海兵隊大学出版局(Marine Corps University (U.S.). Press)がA New Conception of WAR、「新しき戦争の考え方」、ちょっとカッコつけるなら「新戦争概念」という本を出版しました。この本は副題が「JOHN BOYD, THE U.S. MARINES,AND MANEUVER WARFARE」 、すなわち「ジョン・ボイド、アメリカ海兵隊そして機動戦闘」となっており、空軍を去った後のボイドの活動とその影響を受けた海兵隊に焦点を当てた本になっています。一応、空軍時代の記述もありますが、主題は陸戦研究に活動の場を移した後のボイドと、新たな戦闘理論を求めていた海兵隊の出会いと共闘の話です。

このため従来の資料以上に「ボイドの戦術」に焦点を当てたものとなっており、しかも最もその影響を受けて、世界に先がけて陸戦の戦術を塗り替えてしまった海兵隊自身から出版されたものです。よって全面改定にあたり、これを無視できませんでした。筆者のIan T. Brownは2018年に海兵隊大佐であり、世代的にはボイドの薫陶を受けてません。が、実際にボイドと組んで仕事をした人々に取材し、また海兵隊しか知らぬような多くの資料を駆使してこの本を書いています。

なのでこれは読んで置かないと、と思っていたのですが、私の英語力で360P近くもあるこの本を読むのになかなか決心がつかず、その結果が「F-22の道」の全面改訂終了から1年以上掛かっての連載開始となったのでした…。

ちなみにこの本は豪気な海兵隊らしく無料で公開されてますので、検索すれば誰でも読めます。基本は海兵隊員さん向けの教材なので平易な英語(笑)で書かれており、ボイド関連の資料の中では読みやすい部類に入ります。なので興味をある人には一読をお勧めします。まあ、それでも私は読むのに一か月以上かかりましたが…。
ただし軍人さんらしい、要点が時にぼやける、同じ事を何度も述べる、同じ論点をいつまでもグルグル回ってる、という部分も多く、やや読んでいて疲れる部分もありますが、そこまで求めるのは酷でしょう。

そのボイドが陸戦戦術の革命の手段として使ったのがOODA(ウーダ)ループでした。
ちなみにOODAループはあくまで「理論のため道具」なのに注意してください。それが目的でも本題でもなく、それを使っていかに戦うか、を考えるための「道具」なのです。この点は完全に誤解されてますから、要注意。OODAループ単体では何の役にも立ちませぬ。

■ボイドの引退生活

「F-22への道」の記事ではボイドが空軍を去るまでで話を終わりにしてしまったので、まずその後の話を簡単に見て置きましょう。

退役後、年金生活に入ったと言っても、彼が受け取っていた年金は月1350ドル前後だったとされます。1975年当時としても決して十分とは言いがたい金額で、さらにボイドは子供が5人もいたので、生活はかなり厳しかったようです。
そんな中でボイドが何をしていたかと言うと、ベトナム戦争でタイの基地に送り込まれたころに始めた研究の完成に没頭していました。その研究結果が1976年の9月に“破壊と創造(DESTRUCTION AND CREATION)”という名でまとめられ、以後、彼の戦略理論の基本となって行きます。

ちなみに書籍はおろか文章ですらほとんど残さなかったボイドの個人研究の中で、例外的な存在とも言えるのが「破壊と創造」のレポートとなっています。以後の彼の理論を理解するうえで重要なものなんですが、ボイドらしく説明は最低限、かつ論理的な道筋をキチンと示さずにバンバン結論に飛んでしまう、という悪い癖が連発されて非常に理解しにくいものとなっています。ネットでもこれは公開されてますから、興味のある人は検索して読んでみてください。ただし英語力の問題ではない、というレベルの読解力が求められますので要覚悟です。このレポートに関してはまた後で少し詳しく見る事になります。

その後、引退から1年近くたった1976年の初夏に、エネルギー機動性理論以来の相棒、クリスティーの要請で民間人の彼が統括していた国防省の航空予算管理部門、戦術航空計画室(Tactical Air Program in Office Of The Secretary Of Defence/ Tac Air)のスタッフとして、ボイドは再び国防省に招かれることになります。これは同志と言っていいクリスティーが、彼の生活を見かねたのと、その能力を必要としたためだったのですが、ボイドはこの仕事に無給で勤務する事にしてしまいます。

すでに国から年金をもらっている以上、二重に金銭を受け取ることはできない、と給料の受け取りを拒否したためですが、結局、5年間無給で勤務した後、国防省内に無給の人間が居てならぬ、という前代未聞(笑)の通達を受け、その後は1ドルだけ受け取るようになりました(無給禁止は本来、兵器メーカーなどが上層部の秘書人件費を負担するなどの癒着を防ぐためのルールだった)。最後の最後まで、ボイドのこの姿勢は変わらなかったようです。

彼も国防省の仕事より自分の研究を優先してましたし、国防省の人間であるという立場を利用して研究活動に役立てていた、という面があったのですが、それでも異常なまでの潔癖症でしょう。金の多寡で人間の価値が決まると考える一般的なアメリカ人と異なり、ボイドは常に金銭には淡白であり、その行動原理は純粋な知的好奇心と、その啓蒙活動だけでした。やはりなんとも不思議な人です。そしてそれを支援し続けたクリスティもまたすごいなと思います。

ただし経済的に困難な状況に追い込まれた結果、その家族は大迷惑だったのですが…



1975年に空軍を去るまで、ボイドは敵を造りまくりながら軍の中枢である国防省、ペンタゴンの建物に居座り続け、そして半ば追い出されるようにここを去りました。そしてその約1年後にクリスティに招かれここに帰って来ると、こんどは退役軍人、民間人として世界の陸戦を一新させてしまう戦いをスタートさせるのです。

ちなみにボイドのもう一つの特徴として、自分の知的好奇心が満たしたら、その内容を無性に人に教えたくなる、というのがありました(この気持ち、実は筆者もよく理解できる(笑))。これはエネルギー機動性理論の時もそうでしたし、OODAループが絡んで来る以後の時代でもこの性癖が出て来るのです。

その結果、ボイドはペンタゴンのTac Airを根城とし全米の軍基地、軍学校に自説を教えるブリーフィングを行うために出かけて行きます。当然、アメリカ中の基地に行くことになる以上、交通費は受け取ってました。ところがドンスコイ、彼の死後、遺族が身辺を整理したところ全く換金されていない交通費の小切手が何千ドル分も出てきて驚いたそうな。とにかく、この人は金では動かない人なのでした。

■ボイドのその後の活動 空軍編

空軍退役後のボイドの活動は大きく分けて二つあります。空軍時代の仲間と行った、自らの古巣である空軍に対する改革運動、そしてアメリカ海兵隊に対するOODAループに基づく戦闘理論構築の協力です。
後者がこの記事の主題なのですが、先に再構築(Reform)運動と呼ばれた1970年代末の空軍に対する改革運動を見て置きましょう。これも彼のアメリカ空軍に対する置き土産の一つと考えていいものでした。

これはボイドの元部下であるスピーニー(Franklin C. Spinney) が1978年ごろ始めたもので、空軍の予算の無秩序な増加と、その用途のいびつさに警鐘をならしたものでした。ちなみにスピーニーも元ボスのボイドとほぼ同時に空軍を去ったのですが、1977年にクリスティーに声をかけられてこちらもペンタゴンに戻って来ています。

この動きは航空予算の総元締め、戦術航空計画(Tac Air)部門の責任者であるクリスティーがスピ−ニーに空軍予算の問題点を洗い出すように依頼して始まったものでした。この時、ボイドは表には出て来なかったものの、常にこの運動をバックアップ、さらに当時すでにペンタゴンを去っていたA-10の父、スプレイも協力していました。
当時、この運動は議会も巻き込み、かなり大きな圧力を軍にかけ、軍の組織などにも大きな影響をあたえました。ちなみに、この間にスピーニーは20世紀のアメリカを代表する雑誌、TIMEの表紙になるほどの注目を集めてます。

この運動でまず問題になったのは新型兵器のコスト増加でした。スピーニー レポートと呼ばれた報告書によれば、新型機では製造コストだけではなく維持コストも同様に増加しており、例えば当時最新鋭だったF-15と戦略爆撃機B-52では、1機辺りの維持管理費はほぼ同額という状況となっていました。この辺りは後にステルス機が出て来るとさらに悪化した部分です。

もう一点の問題は、予算分配のアンバランスさです。空軍は新型機の開発や購入に大きな予算をつぎ込みながら、既存戦力の維持管理は十分に考量しておらず、現場に大きな支障が出ていたのです。 後にこの運動はマスコミの注目も集め、その取材によって、F-111は常に予備パーツが不足し整備員が自腹でケーブルなどを調達して維持している、といった驚くべき事例が次々と明らかになって行きます。



全天候型、すなわち地形レーダーによって視界ゼロの大雨の中だろうが夜間だろうが飛んで行ける戦闘爆撃機となったF型以降は一定の居場所を空軍内に確保したF-111。が、空軍が新型機採用ラッシュの真っただ中だった1970年代後半には、機体の維持費にも事欠き、多くのF-111が部品の欠品などにより作戦行動ができなかったとされます。この事実にアメリカは驚くのです。

スピーニー レポートでは結論として、高騰した兵器価格と維持管理費によりソ連と戦争になったら、アメリカ空軍は数ヶ月ともたずに破綻する、と予言していました。ただし幸か不幸か冷戦は終了し、大規模な軍事行動は数ヶ月以内には終了する時代が来たため、この予言は的中することはありませんでしたが…。

ちなみにこの改革運動に参加した軍人を当時、再構築者(Reformer)と呼んでました。
これはドイツの参謀本部の産みの親、すなわち近代軍の基礎を作ったシャルンホルストが、最初にプロイセン陸軍内で行った改革運動を英語でReform と呼び、その関係者をReformerと呼ぶ事が多いので、それにちなんだものでしょう。となると、名付け親は、多分、スプレイかボイドですね。

最終的に、この運動は上手く行った部分、失敗した部分、それぞれあるのですが、ここら辺りに関しては、この記事の内容にはそれほど深く関わらないので、あまり突っ込まないでおきます。とりあえずこれにより、空軍が大きな改革に迫られたのは事実でした。まあ、例によって一部はすっとぼけて逃げ切っちゃうんですけど。

そしてこの運動の中で、ボイドは議会関係者と多くの接触を持ちました。
その中の一人が、当時下院議員だった共和党のチェイニー(Dick Cheny)です。後にブッシュ大統領(父)によって、国防長官に指名された彼は湾岸戦争時の国防長官となります。
既に何度かボイドの戦術理論を聞いていた彼は、湾岸戦争が避けられないと判断すると、引退生活に入っていたボイドを再度ペンタゴンに呼び出し、作戦立案に参加させたと見らえています(この辺りは未だに情報公開されて無いのとボイドも守秘義務によって最後まで何も語って無いが、国防省に呼び出されたのは事実で、おそらく間違いなく作戦に関係している)。
これが「砂漠の左フック」攻撃、人類史上最大の巨大機甲部隊による前人未踏の砂漠横断進撃、「砂漠の嵐」作戦の立案に大きな影響を及ぼす事になります。この辺りもまた後で。


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