■戦いの経過



設楽ヶ原の北の端にあるパーキングエリア展望台から見た風景。
ここから南端部となる乗本川(現在の豊川下流部)までせいぜい2000m程度の幅しかありません。
両軍合わせて最低でも3万8000人、最大だと11万人近くがここに殺到したら、見渡す限り人だらけでしょうね。
(武装した兵に1m四方の狭い場所だけを与えても、南北に展開する柵の前後には2000人前後しか並べない。
もし10万人近い兵がここに居た場合、予備兵を別にしても、最低で20〜40mの幅で南北に兵がずらりと並ぶ事になる。
最後の織田・徳川の全軍突撃ではそれこそ平野全体が人で溢れる事になり、近所のキツネやタヌキは大迷惑だったろう)

さて、では長篠の合戦の状況を信長公記、甲陽軍鑑、三河物語
のおなじみ三点セットを基に確認してみましょう。

例によってそれぞれの記述は微妙に異なるので、別々にまとめますが、
その前に各資料の間で差がない内容を見て置きましょう。
この辺りはほぼ事実だったと見ていいと思われます。

●武田側から織田・徳川陣地に攻め込んだ

●鉄砲の威力は凄かった

●鉄砲足軽の部隊は基本的に柵の外に出て戦った

●織田・徳川連合軍では鉄砲足軽の部隊以外は、柵の外に出ない戦法だった。
ただし徳川側、特に大久保忠世兄弟は積極的に討って出た

●馬場信春の最後は見事だった

といった辺りになります。
では、それ以外の部分について、それぞれの資料で見て置きましょう。

■信長公記

合戦開始直前、信長は本陣を家康本陣があった高松山に移動。
佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の五人を鉄砲奉行とし、
1000人の鉄砲足軽部隊を指揮させた。
信長が見守る中、これらは既に命令されていた通りに敵に近づき、鉄砲を撃ちかけた。
(武田がまだ手を出してこないので、挑発した?)

さらに後方からの攻撃も加わり(前後より責められ)、武田側も攻撃を開始する。
(酒井奇襲隊が長篠城解放後、有海原に進出、敵主力後方に攻撃を開始したか、
あるいは鳶ヶ巣砦が織田・徳川軍に奪われた事を指すと思われる)

最初に攻めて来たのは山県昌景で、進軍の太鼓(推し太鼓)を
鳴らしながらやって来たが、鉄砲で散々に撃たれ、退いた。

次に来たのは武田信廉(逍遙軒)だったが、鉄砲足軽部隊が命令通り、
遠すぎず近すぎず、常に一定距離を取ってこれと戦ったため、
過半数の兵が撃ち倒され、これも撤退した。

三番目は西上野の小幡一党の赤武者が来た。
関東衆は騎馬兵が多く、これも騎馬で押し太鼓を鳴らしながらやって来た。
鉄砲足軽も人数を集め、身を隠して待ち受けて撃つと
過半数が撃ち倒され、人が無くなり(馬だけが残ったという事?)撤退した。
(三資料の内、騎馬突撃の話はこれが唯一となる)

四番目に武田信豊が黒武者を率いてやって来た。
このように次々と、敵は入れ替わりやって来たのだが、
対する織田軍は主な部隊は誰も出ず、鉄砲足軽だけでこれを
全て撃破して、退却させてしまった。

最後、五番目に馬場信春が登場したが、これも味方が人数を揃えて
鉄砲足軽で迎え撃ったため、皆、撃ち倒されて退却した。

羊の刻(14時ごろ)まで戦いが続いたが、武田軍は入れ替わり戦ったものの
鉄砲で撃たれまくった結果、次第に人も居なくなり、最後は武田勝頼の旗の下に集まると、
鳳来寺方面(北)を目指して、一気に敗走に入ってしまった。
(街道筋に逃げる東側は既に封じられてるため、ここしか逃げ道が無い)
織田・徳川連合は追撃に移り、前後からこれを叩いた。
(やはり後方からの攻撃が指摘されている。城から進出して来た酒井奇襲部隊だろう)
その撤退戦の中で、馬場信春の働きは比類なきものだった。

結局、武田軍は侍大将から兵まで、1万人が討ち死にした。
さらには追撃戦の中、川に落ちて溺れ死ぬもの、
山に逃げて迷い、餓死するものなども多かった。

その敗走中に勝頼は駿馬として有名だった自分の馬を乗り捨てて逃げたため、
これを捕らえて、信長は後に自らの厩に繋いだ。

■三河物語

織田・徳川連合の10万の軍勢は、足軽(鉄砲足軽)だけが柵から出て戦い、
その他の軍勢は柵の中に居た。
ただし徳川軍では大久保忠世、忠佐の兄弟が柵の外に打って出て、
柵内の味方と武田軍の間に割って入り、敵をひきつけたり、追い払ったりしていた。
これを見た信長が、陣地の前で戦ってるあれは、敵か味方か、と家康に問い合わせて来たので、
「敵ではありませぬ。我が譜代の者で、金のアゲハ蝶の指物(紋所の入った旗)を
持つのが兄の忠世、そしてその弟の忠佐でございます」
と返事をしたところ「家康殿はよい部下を持ってる。当家にあれほどの者はおらぬ」と誉められた。

その間、武田軍も、土屋昌次、内藤昌豊、山県昌景、馬場信春、真田信綱などが
次々と攻めかけて来たが、ことごとく雨のような鉄砲に撃たれて討ち死にしてしまった。
これを見て武田軍は潰走に入ったが、勝頼は無事逃げ延びた。

ちなみに大久保忠世と忠佐の兄弟は、三河物語の筆者、大久保彦左衛門の兄にあたるため、
これをベタ褒めする内容になってますが、詳細は省略(笑)。
ただし、同様の記述が甲陽軍鑑にもあるため、兄弟の活躍は事実だったようです。


■甲陽軍鑑

最後、甲陽軍鑑は陣取りと戦闘経過について一番詳しいので、
キチンと理解するため、先の図を再度掲載。

ちなにに甲陽軍鑑では前半部である品第十四、そして後半部にある品第五十二に
長篠の合戦の記述が分かれてあります。
とりあえず最初は品第十四の内容から紹介しましょう。



5月21日の合戦は、6時間(三時)に渡って、敵を柵の間際まで追い込んで戦った。

攻撃陣の構成は右翼は馬場信春、二番手に真田信綱と真田昌輝の兄弟、
三番手に土屋昌次、四番手に穴山信君、五番手に一条信竜の五手(五つの軍団)。
中央は内藤昌豊ほか五手、左翼は山県昌景ほか五手となっていた。
(中央と左翼の軍団に関しては後の品第五十二に記述がある)

大将とその取り巻きの7〜8人以外は全員徒歩で槍を持って戦った。
右翼の土屋、一条、穴山率いる軍勢は佐久間信盛が守る柵を二段まで突破したが、
手持ちの兵は少なく、敵はあまりに多勢であり、そこまでだった。
(ただし後の品第五十二では突破したのは一段目まで、
さらに穴山は戦わず引いたとある。
甲陽軍鑑内で筆者が異なる部分なのだろう)

柵の木が三重にまで造られており、まるで城攻めのような戦いで、
大将たちも次々と鉄砲に当たって戦死してしまった。
それでも山県昌景の首は志村という被官(家臣)が取り織田軍に渡さなかった

以上が、品第十四の記述。


織田・徳川連合軍は10万の人数を誇り、さらに柵を三重に造り、
要害(切所)を三段にして待ち受けていた。
そこに勝頼率いる1万2千人が挑みかかったところ、最初は全ての場所で武田側が勝った。
馬場信春は700人の手勢で、佐久間信盛率いる6000の兵を柵の中に追い込んだが、
その追撃中に2、3の大将級の者が討ち死にを遂げた。
(二三騎討死申候/騎馬兵は指揮官級なのは既に説明した。よってこの文は指揮官級の死を指す)

さらに滝川一益の3000の兵を内藤昌豊率いる1000人がこれも柵の中に追い込んだし、
家康の手勢6000人を山県昌景の兵1500人が柵内に追い込んだ。
ただし徳川の兵は強敵で、再度、これを押し戻して来た。
(これらの数字を見ると、織田・徳川連合の10万人説はどうも無理がある。
やはり信長公記の2万6000が一番現実的な感じがするが…)

ここで左翼で徳川軍と激突していた山県は防護柵の無い場所を求め、
さらに左方向(徳川軍の右、すなわち南の乗本川沿い方向)
に迂回を試みるがこれを見た徳川軍から大久保忠世、忠佐の兄弟が討って出て来た。
忠世は蝶の羽の指物(紋所の入った旗)忠佐は金の釣鐘の指物で、兄弟であると名乗りを上げた。

対して山県の陣営からは小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の
三人が名乗りを上げ、これを迎え撃った。
9回にわたる競り合いがあったが、最後は小菅と三科が負傷して後に引いた。
その上、大将の山形昌景が鉄砲で撃たれ即死してしまった。
ただしその首を山形の被官である志村というものが取り、敵に渡さずに逃げ帰った。
(敵に渡さないため、部下が首を切って逃げ帰る、というのもスゴイ話ではある)

その後、左翼と中央部では甘利の衆(信康か?)、原昌胤の衆、跡部勝資(かつすけ)の衆、
小山田の衆(信茂だろう)、小幡の衆(信貞?)、望月の衆(信永?)、安中の衆(景繁?)
さらに武田一門である武田信兼(逍遙軒/ただし写本によっては彼の記述は無いらしい)、
武田信豊(二代目 典厩)らが突撃して、柵際まで敵を追いつめている。

右翼では最初が馬場信春、次に真田信綱・昌輝の兄弟、そして土屋昌次が
織田軍(上方勢)を攻めたが、これらは柵の外に出てこなかった。
そこで馬場の衆と入れ替わった真田の衆が、攻め込んで柵を一段目まで破ったものの、
最終的には兵の多くが討ち死にしてしまった。
さらに真田兄弟も傷を負い、退却中に討ち死にしてしまった。

それに続いた土屋昌次は、かつて武田信玄の後を追って割腹自殺しようとしたのを
高坂弾正(甲陽軍鑑の筆者の一人)に止められ、この合戦に参加していた。
「今こそ死に時である」と宣言していたが、敵が柵から出て来なかったので、
大将自ら柵に向かって攻めかかり、討死してしまった。

これを見て穴山信君の衆は戦わずに引き上げてしまった。
(この辺り先の品第十四とは説明が異なる)

馬場の兵700人も大方が討ち死に、あるいは傷つき、最後80人前後になってしまった。
ただし馬場本人は全くかすり傷すら無く(この人は家康と並んで不死身伝説の持ち主なのだ)、
周囲の同心(兵)と被官(士官)にもう逃げよ、と告げたが、誰一人、馬場を見捨てて逃げなかった。
その時、一条信竜(龍)が馬場の側にやってきて、同じ場所に居た。
一条の同心、弓の名手だった和田が馬場に向かって指揮を願います、と申し上げると、
馬場は笑って「退却あるのみ」と答え、退却に入った。同時に一条信竜を始め総員が退却に入った。
(これは和田が本来の指揮系統を無視した事になるが、右翼の総指揮を馬場が取っていたのか、
あるいは一門衆の信竜が無能だった、という事を暗にほのめかしてるのか?)
ただし馬場は、勝頼本陣の旗本が敗走に入るまではそこに踏みとどまっていた。

馬場はその後、長篠橋から引き返し(勝頼を逃がした後だろう)、
高台に上がると馬場美濃である、討ち取れ、
と名乗りをあげ、自らは刀に手をかけぬまま、敵兵4〜5人の槍を受け死亡した。
(長篠橋は伊奈街道の橋。長篠城の北西にあり、現在ほぼ同じ位置に同名の橋が架かってる。
ただし、この周辺は既に織田・徳川連合に抑えられてはずで、
このため勝頼は橋を避け、ここから北、鳳来寺に向けて敗走したと思われる)

以上が品第五十二の記述。


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