■さあ、決戦だ

さて、長らくお待たせしました。
ようやく決戦の始まりです。

ここで再度、戦場の朝の状況を確認しておきましょう。
まず、この日の早朝、鳶ヶ巣山の砦が奇襲され、
その結果、長篠城は織田・徳川連合により開放されました。
これによって同時に武田軍は信州方面に向かう街道筋を完全に抑えられ、
設楽ヶ原の地峡内にて袋のネズミになったのです。

その長篠城の西、約5q前後の位置に、織田・徳川連合による防護柵陣地があり、
そこから設楽ヶ原を挟んで2qほど長篠城方向に戻った位置に、
武田軍の主隊が合戦直前まで陣を張っていた事になります。

ちなみに三河物語、信長公記、ともに決戦場を有海原(あるみはら)としてますが、
明治期以降の地名だと、長篠城から滝沢川を渡った対岸の狭い平地が有海原、
そこから西の丘陵地帯を抜けた先の大きな平地が設楽ヶ原(したらがはら)となってるようです。
当時は設楽ヶ原も有海原の一部だったのか、あるいは他所の土地ゆえ、
正しい地名が判らなかったので有海原と書いてしまったのか、詳細は不明です。
とりあえず、決戦があったのは間違いなく現在の設楽ヶ原になります。

余談ながら、古い地名では湖を海(江)と呼びます。
有海原の周囲には大海、貝津といった地名があり、おそらく
かつて周囲に人が住み始めた頃、この辺りは湖だったんじゃないでしょうか。
まあ、本題には関係ないので、この話はここまで。



信長公記によると、合戦は日の出から14時(羊の刻)ごろまで続いたとされます。
甲陽軍鑑にも合戦は6時間(三時)ほど続いたと書かれてるので、
かなり長時間続いた戦いだったようです。

ただし夏至の直後であり、山中は地平線が高いゆえ日の出の時間が遅れると言っても、
5時過ぎには日の出になっていたはず。

よって記述の通りに日の出から合戦が始まったなら、
14時ごろまで9時間以上、戦いが続いた事になってしまいます。
さすがに当時の合戦としては考えにくく(関ヶ原より長時間戦った事になる)
実際の戦闘時間は甲陽軍鑑の6時間前後であり、
おそらく朝7〜8時前後から始まったと考えるべきでしょう。
ついでに、この日の出が、文字通り太陽の出を意味するなら、
この日の天候は晴れていた事になります。
鉄砲撃ち放題であり、信長大歓喜だったでしょうね。

ちなみに信長公記によるとに酒井奇襲部隊が
長篠城に入ったのは朝8時ごろ(辰の刻)とされてます。
ほぼ同時刻か少し早い時間に合戦が始まったと思われますから、
勝頼は長篠城の抑えの武田軍が完全に敗走する前の段階で、
素早く行動を起こし、織田・徳川陣地に向かっていた事になります。

後方の大きな銃声を聞いたり煙が上がるのを見た直後、
あるいは現地から襲撃の報告が来た直後に
正確に事態を理解し、織田・徳川連合の本陣突破に動いてないと、
その時間までに開戦するのは無理です。

軍全体に動揺が走る前に決戦に入る必要がありますから、
この勝頼の戦術眼は、捨てたものではありません。
もっとも、すでに死地に入ってしまった、という致命的な失策があった後なので、
全てにおいて、既に手遅れなんですけどね…。

では、いよいよ激突となった両軍の主な指揮官、大将の配置を
確認できる範囲内で見て置きましょう。
これは甲陽軍鑑によるもので、信長公記と三河物語に陣地の説明はありません。
ちなみに19世紀中盤、幕末期に、なにか戦史ブームでもあったのか、
怪しげな本、古地図が大量の出回ったことがありました。
そういったものの中に長篠合古戦場図などもあります。
が、合戦後300年近く後になって造られた怪しいものですから、ここでは一切無視します。

図の上が北側です。両者はほぼ東西方向に並んで対峙していた形になります。
まず、織田・徳川連合は当然のように防護柵にそって横に広く展開していました。
人数的には織田軍の方がずっと多数ですから、担当する前線の長さは、
織田軍の方が長く、徳川軍は主に南面だけを担当していたようです。





織田・徳川連合軍は織田信長が総指揮官でした。
対陣中は極楽山に本陣を張っていましたが、
信長公記によると合戦開始直前、徳川家康が陣を張っていた高松山に移動してます。
家康と共同で作戦を指揮したのかとも思いますが、信長公記によると
信長はここを「取り上げられた」とされており、これが指揮所として採用した、
という意味なのか、家康からこの場所を取り上げてしまった、という意味なのか判別がつきません。

ついでに、この高松山がどこにあったのかが、今では全くわかりません。
さらについでに例の(笑)四戦紀聞では家康の本陣は弾正山という
全く別の場所だったとしてますが、例によって怪しいので無視します。
さらにいうなら、茶臼山に家康と共に信長が陣取った、という話を現地の観光案内で見ましたが、
茶臼山が本陣なんて話はどの資料にも一切出て来ず、どこから出て来た話でしょうね、これ…。

その織田・徳川連合軍では南に徳川、中央と北側に織田軍が居たとされます。
甲陽軍鑑によると、中央に居て内藤昌豊とぶつかったのが滝川一益、
北にいて馬場信春、真田軍団といった強敵を迎え撃ったのが佐久間信盛という事になってます。
羽柴、丹羽の軍団の配置は不明で、基本三点資料の中では最後までその配置がでてきません。
予備兵力だったのかとも思いますが、憶測でモノを書いてもしかたないので、不明とします。

織田軍は鉄砲足軽部隊だけを柵の外に出して
武田軍の突撃を迎撃させ、主力軍は柵の中に居ました。
信長公記や三河物語を見る限り、織田軍の主力部隊は最後の追撃戦まで
単に待機してたように見えます。

ただし甲陽軍鑑を見ると、防護柵は一段目、場所によっては二段目まで
武田軍に突破されたとなってますから、
これを追い払うために、合戦の途中からは戦ったと見られます。
榊原家譜にも同じような描写があるので、柵を巡っての戦闘はあったはずです。
柵が突破された後、鉄砲足軽がどこで何をしてたのか不明ですが、
接近戦では何の役にも立ちませんから、
安全な本隊の後ろに回ってた可能性が高いでしょう。

対して徳川軍は、大久保忠世率いる部隊が柵の外に出て山県の部隊と激突した、
とされており、織田軍とは少し違った戦いをしてます。
これは三河侍は血の気が多い、というのと同時に(笑)山県が南に迂回、
柵が無かったらしい乗本川沿いから織田・徳川軍の背後に回ろうとしたのを
柵の中から討って出て阻止した、という面もあったようです。

その徳川軍にも鉄砲足軽の部隊は居たのですが、常に柵の外に居たのかどうか、
そして大久保部隊が武田軍に突撃中はどこで何をやってたのか、よく判りません。
(下手に撃ったら同士討ちになるのだ)
とりあえず、この図では柵の前に位置させておきました。

ここでもう一度、同じ図を。
 

武田軍の攻撃が五段(五手)に分かれてた、というのは
信長公記、甲陽軍鑑、ともに記述が一致してるのですが、
信長公記では、単に五段階に分かれてた、とされてるだけです。

対して甲陽軍鑑では上の図のように、さらに右翼、中央、左翼と三つに分かれてたとされ、
現地に居た四天王を中心に、それぞれ五段に攻撃陣を組んでいたとします。

まず、織田軍とぶつかった右翼に、馬場信春を始め、
上のような六人の大将の名を上げてます。
(真田兄弟は共同で指揮してたので、合計で五軍団。軍
団と言ってもほとんどが1000人以下の集団だが)

残りの中央と左翼は内藤と山形だけは配置がはっきりしてるものの、
それ以外の9つの軍団は左翼と中央部担当としてまとめて記述されており、
徳川軍を相手にしたのか、織田軍に向かったのか、はっきりしません。
(さらに、そもそもこれだと11軍団になってしまい数が合わないのだ)

勝頼の本隊は、予備戦力として、それらの背後にあったはずで、
結局、最後まで戦線に投入されず撤退に入ったようです。
ただし、合戦中の勝頼の本陣の位置は基本三資料にはなんの記述もなく、正確な場所は判りません。
先に見た丘の上の記念碑がある場所は、対陣中の本陣のはずで、
戦闘中にこんな後方にいるほどマヌケではないと思いますが…。

といったところが合戦時における両軍の配置となってます。



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