■決戦の場所

さて、お次は決戦の場所について。
これは三点の資料とも、武田側が、織田・徳川連合の陣地に攻め込んだ、
としてるので、その防護柵陣地の位置を推定すればわかります。

この点、この合戦場については信長公記が異常ともいえるほど詳細に述べており、
それによると、有海原から30町(約3q)の位置に武田軍、
そこから20町(約2q)隔てて織田・徳川連合、という布陣だったとされます。
となると、織田・徳川連合の位置は有海原から合計で約5q前後という事になります。

ちなみに信長公記では乗本川の南側の山地から北部の山地まではほぼ30町、
すなわち設楽ヶ原の南北幅は約3qとかなり正確な数字を記しているので、
この陣地の位置もおそらく信頼できる数字と見ていいはずです。

この点は、三河物語でも武田軍が合戦までに進出した距離は
有海原から1里半、約6qとほぼ近い数字を出しており、
有海原から見て5〜6qの位置、というのは間違いなさそうです。
ついでに三河物語では、有海原から決戦場までの地形を「一騎打の処」と書いており、
大軍の激突に向かない、一騎打ちを行うような狭い地区としてます。
これは設楽ヶ原の東の丘陵地帯を指すと思われ、
あるいは当時はこの地形に加え、周囲はほぼ原野だったのかもしれません。

これを例の簡易図で見るとこんな感じです。



再度確認して置くと、薄い緑色が平野部、濃い緑色が山地、あるいは丘陵地帯です。

織田、徳川軍は設楽ヶ原のほぼ中央部に陣を構えて、その大軍を展開し、
対する武田軍は、織田・徳川連合を観察できる、
平野部東端、ギリギリの位置辺りに居たことになります。
長篠城周辺から武田軍の位置までは歩いて1時間弱の距離で、
武田側はおそらく伊奈街道を使ってここまで進出したはずです。

お次はグーグル大地様の画像で、その位置を確認しませう。
右側の白い矢印にあるのが長篠城、そこから伸びる黄色の線が
織田・徳川連合の防護柵までの5qを示します。
その終点から折り返してる青い線は、柵から2q離れた武田軍本陣までの距離を示します。
赤い線は伊奈街道ですね。

 

こうして見ると、織田・徳川連合軍の柵付き陣地は
現在の新城市の市街部に食い込んだ位置になるようです。

で、黄色い線の西側終端部の左上に平井神社という神社があります。
地元の伝承では、信長が本陣を構えた極楽寺山は、その横の高台だった、とされており、
偶然の一致にしては出来過ぎなので、やはりこの辺り、現在の新城市の市街地区あたりが、
織田・徳川連合の陣地だったと思ってほぼ間違いないでしょう。

三河物語によると「谷を前に置いて」防護柵を造った、と書かれており、
それを考慮して極楽寺山の東にある高低差のある部分を線でつなぐと、ほぼ白線のようになります。
この線なら約2qほどの防護柵で完全に封鎖戦が出来てしまいますね。
なんら資料も根拠もないのですが、とりあえず参考として、この辺りに柵が造られていたのではないか、
という事でここに描き込んでおきます。
とりあえず、この辺りから西側は、織田・徳川連合の兵で溢れてた、と思っていいでしょう。

ちなみに織田・徳川連合軍の陣地前に小川が流れてた、というのは
一部の合戦屏風図の絵の中にのみ見られるもので、
例の信長公記、三河物語、甲陽軍鑑の三点セットにそういった記述はありません。
三河物語には、前に谷があった、と書かれてますが、川については何の話もなく、
よって、その有無によって防護柵の位置を推定するのは、無意味と思っていいでしょう。
よって、この検証では川がどこか、なんて事は一切無視します。



設楽ヶ原の北、高台に位置する新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリアには
設楽ヶ原一帯を一望できる、ありがたい展望台があります。
上のグーグル大地さまの画像だと左側、山の麓に広がる巨大駐車場の右端の辺りです。
ちなみに高速道路を使わなくても、下から登って行っての見学は可能でした。

写真はそこから織田・徳川連合の陣地方向を見たもの。
ちょうど矢印の辺りが防護陣地のあった推定地域です。
完全に平野部になった地域であり、丘陵部を避けて部隊を展開した、というのが見て取れます。

ついでながら、実はこのパーキングエリアの横にも、信長本陣跡(自称)とされる場所が残ってます。
ただ、どう考えてもここじゃ平原内に展開する前線への指揮が間に合いませんし、
いくらなんでも武田の陣地に近すぎます。
おそらく合戦終盤、追撃戦に入った後、信長が全体の状況を把握するために移った場所とかであり
少なくとも合戦中の戦闘指揮所ではないでしょうね。
そもそも後で見るように、信長は防護柵の南部における大久保兄弟の活躍を目撃しており、
平野の北端部にあるここで、2q以上先の武者の活躍を見るのは無理ってもんでございましょう。

さて、ここでもう一度、同じグーグル大地様の画像を。



次は武田の本陣を示す青い線に注目。

この線の右端が武田軍の陣地だった場所、という事になるのですが、
そこが平野部の東端部であり、ちょっとした丘があるのが判ります。
実はこの丘陵の上、中央部付近に地元の設楽原歴史資料館があり、
そこからちょっと離れた場所に勝頼公 指揮の地の石碑が建っておりました。

となると、この丘陵部に武田軍は陣を構えた、と見てよさそうです。



現地の石碑はこんな感じ。どうも武田の本場、山形から寄贈されたものらしいです。
左がその勝頼公指揮の地と書かれた石碑、右がその解説で平成5年の日付となってました。

現地で見た時は、ホンマかいな、と思ってしまったのですが、すみません、どうもその通りのようです。
ここで合戦の指揮を執ったかは、もはや誰にもわかりませんが、
少なくとも合戦当日までの間、勝頼がこの丘陵を本陣としたのはほぼ間違いないと思われます。
先にちょっと触れた極楽寺山伝説のある平井神社と言い、地元の伝承は甘く見てはいけませんね。



先にも見た、その資料館の屋上からの風景。
信長公記によると武田の陣地前に谷があり、これを防御に使ってたと書かれており、
ひょっとして向こうの丘陵部を挟んだ、この部分がその谷でしょうか。
ただし、この一帯は田んぼ地帯であり、すなわち江戸期に大規模な灌漑と整地が行われた可能性が高く、
合戦当時の地形をキチンと残してるとは言い難い部分があります。
かつてはどこかに小さな谷(恐らく川)があったのに、埋めるか灌漑で流れを変えて
田んぼにしてしまった可能性はあるのです。

が、とりあえず信長公記に書かれた距離とも、そして状況の説明ともよく一致するので、
ここを武田本陣跡、と判断していいと思われます。

ただし(笑)、現地の資料館の解説では、この前の谷が長篠の戦の決戦場とされ、
向こうの丘陵部の下には防護柵まで再現してましたが、さすがにそれはありえません。
平地戦に置いて、こんな敵陣の目の前(約250m)に自陣を張った例は
戦国期ではまず無いでしょう。いくらなんでも近すぎます。

実際は、ここから2qほど西、平野部のど真ん中で武田軍団は織田・徳川軍団の
防護柵陣地に突撃を繰り返すことになったはずです。

といった感じで、今回はここまで。
次回、ようやく決戦です。



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