■5月21日の朝が来た

さて、というわけで、21日決戦の朝が来ます。
信長着陣の後、すでに3日近く両者は兵を展開したまま、対峙してたわけです。

大軍同士がにらみ合ったまま戦わない、というのは現代の感覚では掴みにくい部分ですが、
どう見ても先に手を出した方が負ける、という状況になった結果、
軍の展開後、だらだらと対陣が続いた例は意外にあります。
羽柴秀吉 VS 柴田勝家の賤ヶ岳の戦い、羽柴秀吉 VS 徳川家康の
小牧・長久手の戦いなどがそうですし、
古代ローマでも、カンネーの戦い、ファルサルスの戦いなどがそれです。

この辺りは、むしろ見敵必殺、敵を見たら速攻で攻撃、という
ナポレオンのようなタイプの方が珍しいかもしれません。
ナポレオンの場合、自軍を高速に移動させて相手の先手を取り、
敵の全兵力が終結する前に強襲して各個撃破してしまうのが
得意の戦法でしたから、これは当然なんですが。

が、先にも見たように、信長は武田軍をここで殲滅するつもりでした。
そして陣地に用意した防護柵と鉄砲を使って有利に戦いを進めるためには、
武田側から攻めて来させる必要がありました。
数で優るとは言え、まだ武田無敵伝説は現役の時期ですから、
信長の性格からして、最も勝率の高い、安全な策をとるわけです。
つまり、相手から攻撃して来ないと作戦は成立しません。

逆に言えば、武田側から見れば、こちらから突入しない限り、
防護柵なんて怖くとも何ともないのです。
にらみ合いを続け、痺れを切らした織田・徳川連合が、
柵から外に出てきたところを一気に叩くのが正攻法でしょう。
兵数の差が圧倒的なので、それで勝てる保証はないですが、
とりあえず、それが最も理想的な戦法です。

よって、動きません。動かざること山のごとし。
もっとも信玄の遺言によって勝頼は
風林火山の旗を持つことを禁じられてたらしいのですが(笑)。
(甲陽軍鑑によれば信玄は後継者に勝頼の息子だった勝信を指名、
父親の勝頼は、あくまでこれが成人するまでの後見人とした。
よって勝頼は遺言によって武田の旗の一切を使用禁止とされたと書かれてる)

こうして両者とも先に動くと不利と判断した結果、にらみ合いになったのでしょう。
そして、この状況を変えるため先に動いたのが信長です。
後方の長篠城に回って武田軍の退路を断ち、
これを戦わざるを得ない状況に追い込むように
徳川軍団の重鎮、酒井忠次率いる暁の奇襲部隊を送り出したわけです。

ちなみに、この戦法は、かつて武田軍の山本勘助が川中島でやろうとして失敗、
戦死をもって償う事になったキツツキ戦法の変形版となってます。

ここで、この朝、最初の戦いの舞台となった鳶ヶ巣山と長篠城の位置関係を、
例によってグーグル大地様の画像で見ておきましょう。

赤い線が伊奈街道で、手前の宇連川沿いの対岸を走るのが、かつての別所街道です。
ちなみに当時の長篠城はもっと北まで広がって伊奈街道に接してました。
よって南北から山が迫るこの地形で、鳶ヶ巣山の砦と、対岸の長篠城を抑えられてしまうと、
画面左、西方面にある平野部からの脱出路が完全に封鎖されてしまうのが見て取れると思います。



信長公記によると、酒井忠次率いる奇襲部隊は
宇連川を挟んだ城の対岸、鳶ヶ巣山にある砦を最初に奇襲してます。

夜明け直後に鉄砲の一斉射撃を行った後、一気に押し寄せて占領に成功、
その後、高地の有利を利用して、山の下にあった敵陣地を蹂躙してしまいます。
さらに、それを見て城内より打って出て来た長篠城の籠城軍と合流、
周囲の武田軍陣地を片っ端から撃破し火を放って長篠城を完全に取り戻す事に成功するのです。

この辺りについては三河物語でも、酒井部隊はまず鳶ヶ巣砦を襲撃して、
これを追い崩したとされてますから、
最も高台にある陣地から潰す、という教科書通りの戦術を取ったのは間違いないようです。
まあ歴戦のツワモノ、酒井率いる部隊ですから、この辺り、ぬかりは無いでしょう。

対して、この時の武田側の正確な布陣はわかりません。
四戦紀聞の三州長篠戦記には、この点に関する妙に詳しい説明があり、
さらに例の陸軍参謀本部の長篠戦記にも同じような記述が見えますが
後世の資料にしかない情報であり、必ずしも信用できないので無視します。
ちなみに現地の城跡、資料館などにある武田側の布陣の解説は、
陸軍参謀本部の戦記に基づいてるようで、これも参考にはなりません。

とりあえず甲陽軍鑑によると鳶ヶ巣山の砦を守っていたのは
残された攻城軍の大将である川窪(武田)信実が率いる千人の牢人・雑兵でした。
なので武田家の家臣団ではない部隊(おそらく予備部隊)が真っ先に襲われ、さらに
最高指揮官である川窪(武田)信実が最初の戦闘で討ち取られてしまった事になります。

甲陽軍鑑によれば信実の下に名和無理介、井伊弥四右衛門、五味惣兵衛の三人の頭が居た、
とされますが、これらは上州、遠州、越後のそれぞれ牢人らしく、
本来は武田家の人間ではありません。これらも全員討ち死にしたと見られます。
当時の合戦ではこういった牢人が仕事を求めて参戦してる事があったようです。
ちなみに信長公記では現地の武田側には指揮官クラスの7人の武将が居たと
書かれていますが、その具体的な名前は出てません。

その他の二千人の兵員は山の下、さらには対岸の長篠城の
北側辺りに配置されてたはずですが、これも詳細は不明です。
いずれにせよ、指揮官が真っ先に討たれ、さらに完全な奇襲だったようですから、
まともな反撃はほとんどできなかったと思われます。
甲陽軍鑑では攻城軍の指揮官は総大将の川窪(武田)信実を始め
全て討ち死、としてますから、とにかく惨憺たる状況です。

この時の襲撃側の人数は疲れ果てた籠城兵を合わせても4500人ほど、
対する武田側には3000人近く居たはずで、
本来なら、そう一方的に蹂躙される条件ではありません。
が、奇襲が成功した事、複数の陣地に人員を分散配置してたこと、
総指揮官が真っ先に討ち死にした事、などによって殲滅されてしまったようです。

ちなみに鳶ヶ巣砦側から長篠城と連絡するには宇連川を渡る必要があるんですが、
この点について記述した記録はなく、奇襲軍がどこかの浅瀬を一気に渡ったのか、
あるいは工兵隊のような部隊が居て、仮橋を架けたのか、よくわかりませぬ。
梅雨時で増水してたはずですから、簡単に渡れたとは思えないのですけどね。

余談ですが、この時の一番槍(最初に敵陣に乗り込んだ武者)が誰か
という問題について、三河物語では妙にくわしく説明してます。
それによると世間では戸田重元が一番槍だったとされてるが、実際は天野惣次郎だった、
こういった誤解が生まれたのは、戸田は指物(自分の紋所などを入れた旗)を持って突入したのに、
天野は指物を持たない状態だった(ずんぼう武者という)、よって目立たなかったからだ、としてます。

山岳戦、しかも夜間の山中移動をやりながら、荷物になる指物を持って歩いた戸田の執念勝ち、
という所なんでしょうが、こういった名誉はそのまま褒賞、すなわち収入に直結しますから、
抜け目ない武士なら、そこまでしたんでしょうね。

さて、といった状況で長篠城は織田・徳川連合軍が奪回、
これによって設楽ヶ(したらが)原から有海(あるみ)原にかけて布陣していた
武田軍の本隊は平野部からの逃げ口を塞がれ、地峡部に閉じ込められた形になりました。

勝頼の本陣にも報せが行ったか、あるいは敗残兵が来たかしたでしょうから、
間もなく武田側も、この状況は把握したと思われます。
そもそも抑えの部隊しか居ないはずの長篠城の方向で、盛大な銃声が聞こえ、
さらに焼き討ちの煙が見えれば、武田軍の兵にも何が起こったかはすぐ理解できたでしょう。
武田軍は既に袋のネズミとされてしまったのだ、兵が気が付けば、
当然、軍全体に動揺が走ります。士気はガタ落ちになるでしょう。

さらには後方へ回り込んだ敵部隊によって挟撃される可能性すら出てきました。
最悪の状況が出現した、と言っていいでしょう。
ついでにこれは推測ですが、おそらく糧食などの物資も後方基地である
鳶ヶ巣砦の辺りに置いてあったと思われ、よってこの段階で、
武田軍は、もはやこれ以上の長期対陣は不可能となったはずです。

かといって、あわてて城の方に取って返したら、後方から織田・徳川連合主力の
追撃を受けて悲惨なことになりますから、勝頼に出来る事はだた一つ、
全軍が動揺してしまう前に、正面の織田・徳川連合軍本隊を撃破する、です。
すなわち勝頼の手元に残されたカードは敵陣への突撃、突破のみとなります。

しかし、その突撃先には、どう見ても突破が困難な、防護柵が
平地の隅から隅までガッチリ展開、そこに鉄砲部隊が待ち受けているのが
遠くからでも見えたはずです。
いくら勝頼でも、そこに突っ込む無謀さは判ってたと思いますし、
だからこそにらみ合いに終始してたのでしょうが、
これを突撃せざるを得ない状況に追い込んだ信長の戦術勝ちでした。

突撃という絶望的な手段が、この段階では最も生存可能性の高い手段であり、
他の手はもう残されてないのです。
王手はかかってしまってます。逃げ場はありません。
武田側の山県、馬場、内藤といった古強者は、この段階で敗北と死を覚悟したように思います。

この時の勝頼が、ああ、これは武田軍が山本勘助の発案で川中島でやろうとして失敗した
キツツキ作戦じゃないか、我々はキツツキに木の中から叩きだされ、
あとは食われるだけの虫ではないか、と果たして気づいていたかどうか。

ついでながら明治31年(1898年)ごろに陸軍参謀本部がまとめた
長篠の戦いの戦史では、この戦いが包囲殲滅戦だった事に全く気が付いてません。
技術戦としての鉄砲と防護柵にのみ主な注意が行ってしまっており、
戦い全体を俯瞰して考えるという姿勢が全く見えない分析になってます。
この様子じゃ、その6年後に起きた日露戦争における陸戦の勝利は
そのほとんどが児玉源太郎という、たった一人の男の力によるんだろうなあ、と思いました。

こうして、日本戦史上、最大かつ最凶の完全包囲殲滅戦、
長篠の戦が始まり、この狭い地峡に閉じ込められた武田軍は
歴戦の勇者たちがことごごく、磨り潰されるように死に絶える事になるのです。


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