■酒井奇襲部隊出動

さて、そうなれば手薄になった長篠城包囲軍の陣地を奇襲しよう、と考えるのが自然です。
当然、織田・徳川連合軍もこれを決行します。
となると正面陣地に居る武田軍本隊に気づかれないように背後に回る必要がありますから、
夜間に移動、早朝に奇襲を行う、という段取りになりました。

だだし誰がこの作戦を思いついたか、については資料ごとに記述が異なるのです。
信長公記では最高指揮官である信長自らの発案であり、
徳川の軍団長の一人である酒井忠次を作戦指揮官に指名して決行されたとされます。

対して徳川側の記録ともいえる三河物語では、そもそも酒井忠次からその提案があり、
信長がこれを採用、発案者の酒井がそのまま指揮官となり決行された、という事になっています。
ちなみに武田側の記録である甲陽軍鑑では、本来なら触れたくない大敗北ですから(笑)、
城の抑えに残った指揮官の殆どが戦死した、と書かれてるだけで、詳細の記述はなし。

この辺りは酒井忠次からの提案、というのが江戸期以降の本では定説になってますが、
それを保証する資料は私の知る限り存在しません。
ちなみに江戸末期の本、藩鑑には信長の小姓だった細川忠興の目撃談として、
この酒井提案の話が出て来てます。

さらに藩鑑の話だと、軍議の途中、酒井忠次が信長にこの策を述べたところ、
「それは小さな戦の戦法であり、このような合戦でするなど馬鹿げてる」と笑われ、面目を失った、
ところが軍議の後で信長から密かに呼び出され、実は密偵が居る事を恐れ、
あのように言ったが、もっともな作戦である、その方が部隊を率いて奇襲せよ、
と酒井に申し渡された、という話が出て来ます。
陸軍参謀本部編の長篠の戦史報告、さらに菊池寛の日本合戦譚にも書かれてるため、
これもあちこちでよく見かける話となっています。

が、ウソでしょう(笑)。
当時の武将にとって、他人の面前で笑い飛ばされるほどの侮辱は無く、
石川数正と並んで徳川の軍団長ともいえる重要人物である
酒井忠次を笑い飛ばして士気を落とすような危険な事を信長がやるとは思えません。
そもそも決戦直前になって小細工をやる人間じゃないですよ、この人。

藩鑑は幕末の1848年ごろから編纂された19世紀の本です。
すなわち合戦から300年近く後に書かれたもので、
これは1716年に始まった徳川吉宗の享保の改革に関する詳細な報告書を
21世紀の2016年の今になってまとめました、みたいな時間差となってます。
信用できるか、という部分が少なからずあるわけです。

さらに言えば、そもそも細川忠興は長篠の合戦の時12歳位のはずで、
普通に考える限り信長に付いて戦場に連れていかれたとは思えませぬ。

といった感じで、明確な判断はできませんが、
とりあえず酒井忠次が中心になって作戦行われた事だけは確かなので、
この記事ではそれ以上の推測は無しとします。

で、信長公記によると、その酒井が率いる部隊は四千名という、
奇襲部隊としてはかなり大規模なものとなりました。
これは敵の兵数がはっきりしないので大事をとったのと、
城の奪回後、街道筋を封鎖、さらには後ろから武田軍に襲い掛かるのに
十分な人数をそろえたのだと思われます。

その内訳は徳川軍から選ばれた弓、鉄砲を得意とする二千名、
さらに織田軍からは鉄砲五百丁と二千名の兵員が出されたとされます。
加えて織田軍から検視役として金森長近、佐藤秀方などの武将が配下に加わってます。



その奇襲部隊の行動は、大筋ではこんな感じです。
深夜になってから陣地を出発、乗本川を超えて、
南の山岳部を迂回しながら、朝までに敵陣地に着くよう、行動したと書かれてます。

最初から川を渡って南側を大回りしてるのは、
鳶ヶ巣山に向かうにはぐるっと回り込む必要があったからですが、
同時に有海原の西に展開してる武田軍の本隊を迂回してるわけです。
この辺り、信長公記では南の山の中を迂回するルートを取った、
と書かれてるわけですが、正直、ホントかな、という気はします(笑)。

夜間登山をやった事がある人は判るでしょうが、深夜の森林限界の下、
標高1500m以下の森の中は真っ暗闇で、全く何も見えず、
ヘッドランプが無いと、一歩も動けないといっていい世界が広がります。
ちなみに私は死にかけたことが二度ほどありにけり。

旧暦で21日、ということは月齢でほぼ21ですから、
(十五夜はその名の通り15日の夜の満月だ)
満月を過ぎて、半分くらいの月になってたはずで、明るくは無いでしょう。
そもそも梅雨時ですから晴れてたのかも不明で、
四千人の軍勢が夜間に4q以上の夜間の山中行軍して
奇襲作戦に成功、というのはほとんど奇跡であり、ちょっと信じがたい部分もあります。

この辺りは長篠城の争奪戦で徳川軍も何度か戦に来ており、土地勘はあったのでしょうが、
それでも夜中の山中を無灯火で突破するのは、地元の人間でも普通は無理です。
なので個人的には、実際は川の反対側を走る別所街道沿いに砦の手前まで行き、
そこから山に入ったんじゃないか、と推測してます。
が、もちろん、この点の確証はありませぬ。
ついでながら例の四戦紀聞には、この辺りの行軍に関して、見てきたように(笑)
詳しい記述がありますが、どうも信用しがたいので、ここでは取り上げません。

ちなみに例の三点資料の一つ、三河物語の作者、大久保彦左衛門は、
この鳶ヶ巣山襲撃戦が初陣だったと言われてますが、三河物語中にはそういった記述はありません。
ただし、この時の敵陣一番乗りが誰だったか、という事について妙に詳しく説明しており、
そこにいた可能性は低くはないです。
おそらく長篠が彼の初陣だった可能性が高いのは間違いないですが。

で、この長篠城の奇襲が成功して、武田軍本隊の後ろから脅威が加われば、
勝頼には正面に居る織田・徳川連合軍本体を撃破するしか道はなくなります。
(背後の敵に向かうと、今度は圧倒的多数の織田・徳川連合軍に無防備な後ろから襲われる事になる。
よって先に正面の敵を突破し、その上で背後の敵を潰すしかない)

よって先に少し触れた問題、火縄銃の使える雨の降らない日を選んで合戦をする、
という目的のため、信長はこの作戦を利用して、合戦の日取りを決定できた事になります。

が、それでもあくまで翌日までの話であり、
前日夜の段階で、翌日は絶対雨が降らない、という保証があったわけでは無く、
やはりこの男の天候運は相当強かった、という気がします。

そんな酒井奇襲部隊の鳶ヶ巣山の砦への強襲から翌21日の朝は始まり、
これをきっかけに長篠の戦は始まってゆく事になるわけです。

この辺りは、次回にて。


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