■長篠という場所で

さて、では今回から実戦編に入って行きましょう。
といっても合戦本番にはまだ話が進まないんですけどね…

とりあえず21世紀というのはスゴイ時代でして、
歴史上によく知られた戦いの舞台の地形を、家のPCで確認できるようになってしまいました。
なので、この記事でも使用許可の範囲内でGoogle Earth さんのお力を拝借して
この戦いについて考えてみませう。

まずは長篠とはどういった場所なのか、の確認から。



浜松と岡崎の中間、大三角を成すように位置するのが長篠です。
衛星写真で見ると、この一帯が赤石山脈(南アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)に
連なる山脈に圧迫されており、平地は海岸沿いの限られた地域のみなのがよく判ります。
中央のデカい汽水湖は浜名湖ですね。

長篠の合戦があった天正3年(1575年)の段階で
この平野部を抑えていたのが家康率いる徳川軍団だったわけです。
(ただし浜松城の東を流れる天竜川まで。その東は前年に高天神城を落とされ武田の勢力圏に)

北側は険しい山地ですから、北の信濃地方からこの一帯に抜けて来れるルートは限られました。
万単位の軍団がこの平野部に抜けられる道としては、まず浜松に向かう秋葉街道があります。
このルートの山間部への出入り口とも言える二股城は元亀2年(1571年)に信玄が浜松を襲った
三方ヶ原の戦いの時、既に落とされてしまっており武田の勢力圏に入ってました。
このため、武田軍団は天竜川流域の平野部に自由に出入りが出来るようになっていたのです。
これは徳川側には脅威です。
このため長篠の合戦で武田軍団にぎゃふんと言わせた家康は、
同年の12月には早くもここを取り返しに行き、見事陥落させています。

そして西側の、もう一つの信州からのルート、
伊那街道と別所街道が平野部に入る場所にあったのが長篠城でした。
ここはもともと武田側が抑えていたのですが、信玄が死去して武田軍団が甲斐に引き返した同じ年、
すなわち1573年の元号が天正に変った直後に徳川側がこれを奪い取っています。
これによって、少なくとも武田軍団の平野部への出口の一つを塞いだことになりました。

このため長篠の合戦の引き金となった事件、1575年(天正三年)春に起きた
徳川側の大賀弥四郎の裏切り、内通未遂の時、
これに乗じて岡崎に向かった武田軍団は、この西側ルートを使えませんでした。
この辺り、記録が無いのではっきりとしたことは判りませんが、
おそらく岡崎より北、すでに前年支配下に置いていた足助城を経由して
岡崎城の北側に出たと思われます。

が、前回見たようにこの内通は徳川側に露見して失敗、岡崎城は守りを固めてしまったため、
勝頼率いる武田軍団はこれを素通り、その南東にあった仁連木(二連木)城に向かうのです。
ところが浜松から出てきた家康、そして岡崎から追撃して来た嫡男の信康の徳川軍団と
武田軍団が薑(はぢかみ)原で衝突するのですが、その後、勝頼は撤収に入ってしまいます。
(城攻めの途中だったのか、城攻めに入る前だったのか不明)

この薑原の戦いも謎が多く、三河物語以外には記述が無い上、
そもそもその場所すらよく判らないのです(笑)。
それどころか勝敗すらはっきりしません。
おそらく仁連木城の近くだとは思うのですが、現在の地名からでは特定できません。
(ちなみに薑はショウガの事で、現在でも愛知県はショウガの産地だ)

長篠の戦いの前哨戦ともいえる合戦なのですが、
三河物語のわずか数行の記述以外、詳細は全く不明となってます。
今回の記事を書く前に、地元の研究家の方が何か調べてないかと思ったのですが、
確認できる範囲では、未だほぼだれも興味を持って調べてないようです(笑)。
武田軍団VS徳川軍団、という興味深い事件なんですけどね…。

とりあえず勝頼側が撤収してる以上、徳川側が優勢勝ちだったと思われるのですが、
だったらなぜ、その後の長篠の戦いでは、織田の援軍が来るまで、
家康がその決戦を躊躇したのかがよく判りません。
実際は小競り合い程度で終わってしまい、敵地での戦いは不利と考えた
武田側がすぐに引き上げてしまった可能性が高いですが、詳細は謎としておきます。

ちなみに明治31年に陸軍参謀本部がまとめた長篠の戦いの戦史によると、
その前の段階で武田軍団は二手に分かれており、小山田正行、高坂昌澄率いる
2000人ほどの別動隊が先に長篠に向かい、残りを武田勝頼が率いて
仁連木に向かった、と書かれてます。
が、調べた範囲ではそういった記述の資料は見当たらなかったので、
根拠不明として、ここではこの説は取りません。

さて、ここで再度、同じ地図を。



さて、そんなわけで仁連木から撤収に入った武田軍は、そのまま北に向かい、
北東の長篠から伊奈街道、あるいは別所街道で信州に戻るルートを取ります。

これが信州方面から甲斐の本拠地に戻る最短ルートだったからでしょうが、
先に書いたように長篠城は徳川方に取られてしまっているのです。
そうなると武田側の選択肢としては、

1. 最低限の抑えの兵で長篠城を囲み、
その活動を抑えてる間に本隊がこれを突破して北上してしまう、

2. 城を攻め落として何の心配事もなくしてから、北上する。
さらに城に抑えの兵を置くことで、以後の平野部への進出ルートを確保する


のほぼ二択に絞られます。
1.だと最速で突破できる代わりに、抑えで残した兵は城からの兵、
さらに後から来る家康、信康の徳川軍に追撃され壊滅を免れ得ないでしょう。

2.だといい事ずくめですが、城攻めは時間がかかるのが常識であり、
その間に徳川軍の本隊が後詰に来てしまい、合戦は避けられない可能性があります。

ただし、この時の武田軍は徳川本隊より兵数は多かったと見られ、
このためそう簡単には負けない、という判断があったと思われます。
徳川軍相手には2年半ほど前に三方ヶ原で圧勝しており、
武田勝頼本人もこの戦いに参加してましたから、まず負けない、と考えたのかもしれません。
さらに長篠城は狭い城で、兵数も少なく、力攻めで行ける、と判断したのでしょう。
このため、勝頼は2.の案を採用、帰りがけの駄賃とばかりに、
長篠城を攻めることになったのでした。

ただし徳川には織田信長というドラえもんクラスの強力なバックが付いており、
これが全力で救援に来た場合、その兵数は逆転、一気に不利になるわけです。
なので速攻で城を落とす、が最大の勝利要因となって来ます。

さらに武田側に城攻めを考えさせたもう一つの要因として、
この時、城を守っていた奥平家の嫡子、奥平貞昌は以前は武田に属していた、
という事情があったかもしれません。
そもそも奥平一族は、最初徳川側についていたのが後に武田側に寝返り、
さらにその後、徳川にまた属した、という、
わずか数年で両家を右往左往してる忙しい一族でした。
このため勝頼としては、大軍城を囲んで脅せば、こっちに寝返るのでは、
といった期待もあったんじゃないかと思われます。

ところが、この時の奥平貞昌は武田軍相手に徹底的に戦い抜き、
20日近くに渡って城を持ちこたえさせ、織田軍団の救援を間に合わせてしまいます。
なので長篠の戦の最大の功労者ともいえますが、この辺りは
この直前に家康の長女 亀姫を嫁にもらっており、徳川家と婚姻関係にあった、
というのが大きな理由だと思われます。
(この婚姻には信長の意向もあった、という話もあるが)

さて、お次は実際の戦いの場になった長篠周辺の地形を見て置きましょうか。


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