■戦争は、生産する

2008年8月 初版掲載
2015年2月 一部修正版掲載


さて、普通に第二次世界大戦を考える場合、ほとんど触れられないが、
実は結構重要な役割を果たした、ちょっと意外な人物が居る。

自動車王、ヘンリー フォードだ。

今回のお話は、彼とその会社、フォード自動車、
さらにはアメリカの自動車業界と第二次世界大戦について、だ。
退屈そうなテーマだが、そうでもない、
というのは、次々回あたりの記事で明らかになる(予定)。

さて。
21世紀まで事実上の同族経営が続いていたアメリカ自動車メーカービッグ3の一角、
フォード自動車の創業者がヘンリー フォードだ。

20世紀初頭、1913年に導入された、ベルトコンベアによる流れ作業により、
大量生産時代のトビラを体当たりでブチ抜いてしまったのが彼である。
全ての製品に同一規格の部品を使うことから始め、後にベルトコンベアによる流れ作業を導入、
最終的に、1500万台という膨大なT型フォード車を量産してしまった。

大量生産という考え方、流れ作業などは19世紀からすでにあった。
が、これを「文明を根底から覆す」レベルの技術に育てたのはヘンリーと、そのチームだ。
偏屈で短気というヘンリーの性格が幸いして(?)、その大量生産開発チームのメンバーは、
次々と他所の会社に移って行き、結果、アメリカは世界で始めて大量生産社会を迎える。

安価な大量生産の工業製品による大量消費、という
20世紀文明そのものの根幹はフォード社が造ったと言って間違いない。
その発明家としての意味は、エジソンやライト兄弟らの活躍と比べて、全く見劣りがしないのだ。



20年近い生産年数と、ヘンリーの超絶必殺量産システムによって、
総計1500万台、という悪夢のような数を生産してしまった、T型フォード。
質実剛健としかいいようがない大量生産向きの構造となっていた。



さらに余談ながら、マルクスの共産主義理論(エンゲルスのでっち上げでなければ)を、
初めて実現させてしまったのは、実はこの全開バリバリの資本家、ヘンリーだったことになる。
必要最低限「自分の生活に必要なだけ生産する」労働を行って、
後は余暇、つまり誰からも何の搾取も行われない自分の時間とする、という
マルクスの考えた「自由の国」を世界で始めて実現してしまったのは、
当時としては破格の日給5ドル、週休2日体制を採用した、フォード社だったのである。
故ソ連も、中国もモンゴルもキューバもベト(以下略)も実現できなかった事を、
1910年代から20年代のフォードは、あっさりやってしまった。

マルクスの「自分の時間が持てる労働者」という理想論
(クドいがホントにマルクスが考えたかは別にして)は、
生産性の向上という、思いもしなかった伏兵、
ヘンリー フォード閣下による大量生産システムという名のデコピン一発で
死亡を宣告されたわけだが、
それにウッカリ気が付かなかったレーニンと不愉快な仲間たち(スターリン含有)は、
若ハゲのイタリー、否、若気の至りで、ほぼ同時期、
ロシアの跡地にソビエト連邦を設立してしまった。
トホホ…。
あと10年、冷静に待っていれば、あんな国家、誰もつくらなかったんじゃないかねえ。

さらに少し脱線すると、上で名前を挙げた発明家、2人と1兄弟は、
偉人物語ではトップクラスの人気キャラだが、全員、強烈なまでの変人揃いでもある(笑)。
例えば車でこの5人と一緒に1日移動することになったとしよう。
夜、車を降りる頃には、ほぼ間違いなく、
大抵の人がノイローゼか対人恐怖症にかかっているだろう(泣)。

実際、フォードの息子はパパからのプレッシャーと会社の経営の傾き、
さらにはなんの因果か、そのパパが工場を建て直してまで
請け負ってしまったB24爆撃機生産の準備で、
心身共に疲れ果て、病死してしまう(戦後の経営者、フォードII世はヘンリーの孫)。

…話を戻そう。
そのヘンリー フォードだが、実際、彼の興味は車には無かった。
どうでもよかった、という状態にすら見える。
結果、爆発的売れ行きを示したT型フォードのモデルチェンジ拒否し続け、
10年程度で全米最大級の会社に育て上げたフォード社を、全く同じくらいのスピードで、
あっというまに傾けてしまった。

19年間も生産が続いたT型フォードがようやくモデルチェンジされたのが1927年。
しかも次のA型の開発に手間取り、その発売は翌1928年となってしまう。
で、新型もデビュー、そこそこ売れてるし、ああ、これで一息ついた…と思ったら、
1929年には世界恐慌が君のハートをストライクとなる。
さらには、安価なT型フォードのおかげで、ほぼ全米に自動車は普及してしまい、
結果、もはや以前ほど、車は売れなくなってしまっていた。
そうなるとあっという間に会社は傾き、
1930年代後半にはフォードは青色吐息となってしまうことになる。

フォード自動車は、戦後、世界のビッグスッリーとしてデカイ顔をしていたが、
あの会社が生き残ることが出来たのは、単純に第二次世界大戦の戦時需要のお陰だった。
朝鮮戦争のお陰で先進国へのレールに乗った日本の国民としては、妙な親近感がある(笑)。
ただし、戦争で息を吹き返しただけでなく、その回復のスピード、というか
ヘンリー大好き大量生産システムの投入による
戦中の生産活動は凄まじい、というレベルのものだった。
結果的にはヘンリーが世界をひっくり返した、とすら言える部分が、少なからずあるのだ。

今回のお話は、それなのでした。
前置きが異常に長いのは、いつもの事だ(笑)。




安価な大衆車とはいえ、そこはアメリカ車。
エンジンは単純な直列4気筒ながら2895.5ccもの排気量があった。
向って左に見えてるのが変速機、ギアボックス。
T型フォードはセミオートマチックだったとされるが、
どういった操作なのかは筆者はよく知らない(無責任)。


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