■空だって飛べるさ

さて、ジャーマンGMことオペル社は、
ルッセルスハイムとブランデンブルグの二つの工場を持っていた。
この内、ブランデンブルグ工場で例の3tトラック、オペル ブリッツを
イヤンというほど造りまくるわけだが、
ルッセルスハイムはほとんどトラックを造った様子がない。
では、何をしていたのか?

実は1939年(開戦直後?)ルッセルハイムの工場は
航空機製造へ転換することが決定されていた。
どうもユンカースによる吸収合併、という話もあったようだが、
とんでもない金額(当時の金額で5000万ドル。さあ、12.3倍だ!)を
すでにオペルに投資していたGMは頑強に抵抗、
大株主だったデュポン ファミリー(あのデュポン社のデュポン一家)が
持っていたナチスとのパイプを使って、これを回避した。

が、その代わり、ルッセルスハイムではユンカースの下請け、
といった仕事を行ってゆく事になる。
この時、最初に請け負ったのが、ドイツの主力爆撃機Ju88の
コンポーネント製造だった。

やりまくるんですよ、ドイツでも航空機製造(笑)。

,量産開始が1939年と決して早くないのに、総生産数約15000機と
ドイツの双発爆撃機としてはダントツの数を誇るJu88。
これはHe111と比べて約2倍、Do17と比べたら10倍近い。
その「ドイツらしからぬ生産性」の影には、
いたんですね、ヘンリーの教えを受けた者たちが(笑)。

Ju88は機体をいくつかに分割して別々の工場で造り、
それを最後に組み立ててまとめる、というタイプの製造法を取った。
オペルのルッセルスハイムの工場では、コクピット、主脚(ランディングギア)、
燃料タンクなどを造った、とされる。

で、問題になるのはエンジンであるユモ211(jumo211)。
これも造っていた、とする資料と、いや造ってない、とする資料があるのだ。
基本的にGMのオフィシャルな資料だと、エンジンは造ったパーツに含んでない。
が、ルッセルスハイム工場にて撮影された、とされる、
ラジエターまで組み込んで、あとは飛行機に積むだけ、
という状態のユモエンジン(形式まではわからん)製造ラインの写真が
残っているので、造っていた、という説をここでは採りたい。
(ちなみに作業員には女性が多数、写ってる。アメリカ的でしょ(笑))
例の「アメリカの陸上輸送」レポートによれば、
その生産台数は9030台とされるから、正しい数字なら、かなりの量である。

なので、ジャーマンGMことオペルはJu88のアホみたいな量産に、
間違いなく、一枚噛んでいた。
そして、またもや、それだけではなかった(笑)。




ユモエンジン、といえば、これ。
ドイツのジェット戦闘機Me262に搭載されていた004ですね。
そう、これも造っていたんですよ。オペルの工場。


Me262に搭載されたユモ004ジェットエンジは、その名からわかるようにユンカース製。
はい、もう話が見えましたね(笑)。
ルッセルスハイム工場はユモ004の製造にも参入するのだ。

1944年10月から1945年5月(これはちょっと怪しい)まで、
954台のユモ004を組上げた、とさる。
ユモ004の総生産数は約6000基とされるから、
その1/6近くはGMが造っていたことに。
(例の「爆レポ ヨーロッパ編」に出てくる数字らしいのだが、
私が手に入れたものにはこれがない。
が、爆レポ、いくつものバージョンがある上、
全資料を添付したものはナショナルアーカイブスにでもいかんと
手に入らんと思うので、この数字を信用したい。
この点の出所は例の「アメリカの陸上輸送」レポートによる)

ちなみに当時、本国のアリソンも、P80のジェットエンジン、
J33シリーズの量産を始めるころだから、GMは
アメリカとドイツ、両方でジェットエンジンを造っていたわけで。
…なんだそりゃ(笑)。




英語圏の資料などでは、Me262を組み立てていた、とするものもありますが、
さすがにそれはないでしょう。
また、Me262のエンジン、と断言してるのがほぼ100%ですが、
これもAr234 に積まれたかどうかを確認する方法がない以上、
「ユモ004を造っていた」としておくのが一番確実かと。




はい、今回はここまで。
次回、いよいよ最終回で、ソ連とか極東の島国とか、
そこら辺を見て行きます。


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