■戦争は精算する

さて、車に興味がなかった自動車王ヘンリー フォード閣下、
では彼の興味は何に向けられていたのか、
といえば、それこそが「大量生産システムの構築」そのものだった。

もともと彼はエンジニアであり、車のメカニズムには強い興味をしめした。
ロールス ロイスやホンダのように、まだ会社が若かったころには、
熱心にレースにも参加している。
が、商売への執着は薄く、その結果、商品としての車開発には無関心に等しかった。
そんな彼が、車のメカニズムの次に興味を持ったのが、
「大量生産システム」だったのである。
(ちなみにフォードが最初に技術者として就職したのはエジソンの会社で、
後々まで、この悪夢のようなコンビは妙な友情で結ばれていた)

T型フォードの大ヒットが確実になったころから彼とそのチームは、
大量生産のための研究を始め、1913年(第一次世界大戦前年)、
ついにベルトコンベアを使った流れ作業による工程の構築、
という「エレガントな解答」にたどり着く。
これによって、従来の10倍以上の生産性(時間の短縮)を確保したと言われ、
実際、その力のすさまじさは、後でじっくり見て行くことになる。




これはトラック&バスタイプで、やや全長の長いTT型フォード。
撮影地は故秋葉原の交通博物館。いい博物館だったんだけどね。
帰ってきてくれないかな…。

ご存知の方も多いと思うが、日本の自動車普及は関東大震災から始まった。
都心を網の目のように網羅していた都電が壊滅してしまったのだ。
結果、東京市はフォードに800台ほどのTT型を発注し、震災の翌年、
1924年(大正13年)からその運用を始めることになる。
これによって多くの人が「自動車って便利じゃん」と気付くことになったのだ。

ちなみフォードが選ばれたのは、
その大量生産システムによって早急に数がそろえられた事、
さらには同じ理由で、かなり他社(ヨーロッパの会社とされる)
より安かったかららしい。

で、ほぼ間違いなく、その「勢い」に乗ってフォードは1925年、日本進出を果たす。
アメリカ、イギリスに続き、日本でもフォードが
自動車という文明の利器を普及させることになる。

で、ヘンリー自らがアニメ演出
家のごとく
ストップウォッチを持って設計したといわれる
ベルトコンベアの製造ライン、これが生産効率の向上だけでなく、
意外な副産物を生み出すことに、間もなくフォード社は気がついた。

それは「誰にでも車が作れるようになった」ことだった。

徹底的な統一規格部品の使用と、
作業のマニュアル化により、言われたとおりにやれば、
誰でも車の製造が出来てしまうことになっていたのだ。
熟練による職人芸は、フォードの手によって
工業生産の場から退場させられることになる。

逆もまたしかりで、大量生産システムによる製造作業は、
職人的な作業になれていた人間には
「耐え難いほど単調な仕事」だった。
後にチャップリンが「モダンタイムス」で痛打する、その非人間的システムは、
熟練工の現場離れ、という意外な副作用を招いてしまい、
一時的にフォードは人手不足に悩まされる。
その結果出て来たのが、有名な「日給5ドル」という、
当時としては法外な報酬による作業員募集だった。
これは「誰でもオッケー」という経験不問の募集で、
実際、誰でも、流れ作業には参加できた。
あまりの単調さに辞めて行く人間が出てきても、高給につられて、次々に人は来る。
来さえすれば、誰でもできる単純作業なのだから、問題はない。

ちょっと脱線。
1978年にフォードを追い出された所をクライスラーに拾われ、
間もなく日本にコテンパンにされてた会社を立て直して人気者になった、アイアコッカ。
彼が人気絶頂時に出したその自伝で、この高給システムを
「自社工場の工員に車を買わせるためだった」
と解説、以後、これが通説となってしまった感がある。
が、1500万台も作られた車を、デトロイト周辺だけで
1万台や2万台売ったって経営上、ほとんど意味はない、という点には、
いい機会なので突っ込みを入れておく(笑)。

話を戻す。
後で出てくるように、フォードは戦中、
イギリスでマーリンエンジンを狂ったように量産するのだが、
この工場、当初、まったく工員の手配のメドが立っておらず、
イギリス側の関係者の頭を抱えさせた。
が、フォード側は全く意に介さず、残ってた若者と素人だけで
17316人の工員を確保(内女性7260名)、
その人員で全英最強の生産性を誇る工場を稼働させてしまい、イギリス人を驚愕させた。

英語が読めて、マニュアルに書いてあることが理解できるなら、
誰でも同じ製品が造れたのである。
それこそがヘンリーが創り出した「大量生産システム」という名の魔法だった。



第二次大戦期の世界最強戦闘機P-51ムスタングや、
ヨーロッパ最強の戦闘機スピットファイアMk.IX(9)などに搭載され、
連合軍の勝利に大きく貢献したマーリンエンジン。

ちなみにイギリスフォード社で生産された分も外見に見える部分にはFordの文字は無く、
基本的には型番とシリアルナンバーで確認する事になる。

写真は中期型のMk.23で、爆撃などに搭載された一段二速過給機搭載のもの。
ついでにアメリカのパッカードが最初にライセンス生産したのがこの20番台マーリンとなる。

大量生産システムは、均一化された規格と、マニュアル化
つまり全体的なシステムによって、その生産性を確保するから、個人の技量を求めない。
その結果、日本同様、アメリカでも戦争中に女性から大学生まで
工場の生産現場に動員しながら、ほとんど品質の低下を招かずに済んだ。
で、この「アメリカ式大量生産システム」はイギリス、さらにはドイツにも貢献し、
日本とイタリアだけ仲間はずれ、ソ連はようわからん、という状態になって行く。
なんで、ドイツはありで、日本が仲間ハズレやねん、という点は後で見て行くことにしたい。

というわけで、ヘンリーは大量生産システムが死ぬほど好きだった。
T型フォードの生産中も、ひたすらその生産効率を追い求め、結果、
コストダウンが進みまくり、その車体価格は驚くべき勢いで下がって行く。
T型がなんのかんの言われながら、あれだけ息が長かったのは、
コストダウンによって、最後まで価格競争力は維持していたからだ。

だが、その結果、ラインはあまりにT型に特化し、他の車の生産は困難になる。
ヘンリーがT型に固執したのは、おそらくそういった面も大きかったと思われるし、
実際、T型の生産が終了後、A型の生産に入るまで、その製造ラインの切り換えのために、
フォード工場はしばらく生産が完全にストップする、という異常事態に見舞われる。

が、そのヘンリーの異常な愛情は、本人も全く予期していなかったであろう、
戦争における大量生産兵器の開発、という意外な面で花開くことになるのだ。

ようやく本題だ(笑)!

ちなみに、ヘンリーは大量生産システムと同じくらいナチスが好きで、
相手のチョゲことヒトラーも、部屋に彼の写真を飾っていた位にヘンリーを愛してたから、
連中は完全に相思相愛だった。その結果のいろんな事は後で書く。
が、いざ戦争が始まってみると、ヘンリーは意外にも母国アメリカに協力的だった。
なぜか(笑)。

戦争には「とにかく大量に造らなければならない単一規格製品」
が山のようにあふれていた。
その現実に気づいた瞬間、大量生産システム構築大好きな彼は、
イヤン、ヘンリー困っちゃう、ってなくらいに興奮し、
アメリカの為なら例の猫より1回は多く死ねる、
程度の決意は速攻でしたに違いない(笑)。

「オレはやるぜ造るぜ造りまくるぜマキシマムー」という歓喜が彼を襲ったわけで、
襲った結果、息子さんは気の毒な死を迎えるのだが、
とりあえず、ここではその実例をいくつか見て行く。

まずは、最も有名で、もっともインパクトのある製品、4発爆撃機、B24の生産からだ。



「シャッター付空飛ぶカバ」の愛称で私に知られるB-24リベレーター爆撃機。
これをフォードは大量生産してしまうのでした。
B17と同世代機と思われがちですが、本来この機体はB17の後継機となる予定だったもの。


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