■アメリカも結構大変だった

さて、では8日の空母艦隊決戦の日における
アメリカ側の空母機動部隊の動きを見てゆきましょう。
とりあえず見つけられやすい晴天下にあったとはいえ、こちらにはレーダーがあり、
目視よりはるかに遠距離から敵の接近を知る事が可能でした。
迎撃態勢としては、日本側よりはるかに優位だったのです。

ところがアメリカ空母と言えど、レーダーを使っての対空迎撃戦は初めてで、
あれ、レーダーってそういうものなの?的な誤判断の連鎖から、
あっさり日本の攻撃部隊の接近を許してしまいます。

この結果、USSレキシントンが複数の爆弾、魚雷の命中弾を受け損傷し、
さらに艦内で発生した火災の鎮火に失敗、
この日の夕方に沈むことになります。
日米通じて2隻目の空母損失ですが、日本側の祥鳳は
小型の改造空母ですから、旧式艦とはいえ正規空母の
USSレキシントンを失ったアメリカの損失は小さいものではありませんでした。
(1927年就役のアメリカ正規空母最古参艦(艦歴15年)だった)

では、そんなアメリカ側の8日朝からの動きを見て置きましょう。
今回も最初に戦域全体の地図を掲載しておきます。



アメリカ側が日本の空母機動部隊を発見したのは8:30頃、
ジョセフ(ジョー)・スミス(Joe Smith)機によるもので、
これは日本側のTF17発見とほぼ同時刻です。

ただし、この報告位置がかなり実際とズレていたのですが、
その報告を受けたTF17の司令部が奇跡的な計算で、
どういうわけか全く不明ながら、
かなり正確な推定位置をはじき出して居た、という点までは既に説明しました。

8:30の時点における実際の両者の距離は約200海里(約370q)前後でした。
TF17側の推定距離は、索敵機の報告よりはマシな数字になったとはいえ、
それでも実際より少し短めにこの距離を見積もっており、
さらに南下中の日本側の艦隊は、攻撃隊発艦までにより接近すると判断、
TF17からの距離は約175海里(324q)、方位28度(北北東)と見てました。
(実際はもう10海里(約18.5q)前後遠かったはずだがギリギリ誤差の範疇だろう)

日本側の240海里より短い、200海里前後を空母艦隊決戦の間合いとしてたらしい
アメリカ側としても既に必殺の間合いであり、即座に攻撃隊の発艦準備が開始されます。

そして攻撃隊発進の決定がなされた後、艦隊全体の戦闘指揮権が、
TF17の指揮官、フレッチャー少将からUSSレキシントンで航空作戦全体の指揮を執っていた
フィッチ(Aubrey Wray Fitch)少将に渡されます。
(USSレキシントンを中心としたTF11の指揮官だったフィッチも少将だが
フレッチャーの方が先任だったのでこちらが合流後のTF17の指揮官となっていた)

これは前日、7日の祥鳳攻撃の時には行われなかった指揮権の移譲で、
何か前日の戦闘で反省があったのか、この日は確実に敵からの反撃がある、
と判断されたので航空作戦指揮官に全艦隊指揮権の移譲が行われたのか、
どちらかだと思いますが、詳細はよくわかりません。

ちなみにフレッチャーが提出した行動報告書によると、
航空攻撃司令部のあるUSSレキシントンと
TF17司令部のあるUSSヨークタウンの間で、
イチイチ作戦上の指示のやり取りをする(発光信号による)
煩雑さをなくすために全指揮権をフィッチに渡した、とされてます。

ちなみに、この発光信号による命令の伝達の省略は、
護衛の艦に対しても適用され、このため、空襲回避運動に入った両空母の
どちらに付いてゆくかは、各艦長の判断にまかされてました。
実際はそれぞれに6隻づつが張り付いて対空砲火を展開したのですが、
これは艦隊司令部からの指示ではなく、各艦の判断の結果、
うまく半々に分かれてしまったもののようです。

悪くない判断だったと思いますが、残念ながら肝心のフィッチの作戦指揮は
あまり褒められたものでは無かったのでした。
まあ、これが最初の空母艦隊決戦、という事を考えれば、
いろいろ同情の余地があるんですが…

ちなみにあっさり指揮権を他人に渡してしまう、というやり方は、
フレッチャーの場合、ミッドウェイ海戦でもスプールアンス少将率いる
第16機動部隊(TF16)に対して行っており、
これがこの作戦の成功のカギの一つになってます。

で、アメリカ側の攻撃隊は艦ごとにバラバラに出撃するので、
まず9:00ごろ、この日の主力攻撃担当だったUSSヨークタウンから
発艦が開始され、続いて9:10ごろ、この日の朝の索敵担当だった
USSレキシントンからも発艦が開始されます。
そして、ヨークタウン隊に比べて経験の浅かった
レキシントン隊は、急降下爆撃機の多くが攻撃目標に到達できず、
さらに甚大な損害まで食らって、散々な目にあう事になるのですが、
この点はまた後で見ましょう。

この全攻撃隊の出撃が終わって間もなく、9:30ごろからUSSレキシントンの
索敵機の帰還が始まってるのですが、すでに攻撃隊は出た後、
さらに今回は敵味方識別装置(IFF)をキチンと積んだ
USSレキシントンの機体ですから、特に混乱もなく収容は進んだようです。

この間、アメリカ側の索敵機が日本の空母機動部隊からの
攻撃隊発進を報告したのかどうか、どうもはっきりしません。
が、TF17周辺を発信源とする日本の航空無線が既に傍受されてたので
(恐らく菅野機によるものだろう)
もはや艦隊は日本の索敵機に発見されており、
ゆえに敵からの反撃は必須と見られてました。
このため、上空護衛部隊の展開もすぐに行われる事になります。

が、先にも述べたように、アメリカ側はここまでの戦いで
戦闘機の数をかなり減らしてしまってました。
このため攻撃隊の護衛戦闘機を大幅に減らしたのですが、
それでも艦隊護衛に残せたのは17機だけでした。
普通に配備してたのでは、やや数量不足で手薄となります。

そのため、急降下爆撃機であるSBD ドーントレスを
艦隊上空の護衛用に投入して来るのです。
朝の索敵に出ていたため、攻撃隊に入れなかったUSSレキシントンの18機、
さらにはUSSヨークタウンからも8機を引き抜いて、
これを艦隊周辺の対潜哨戒に当たらせるとともに、
低空で突っ込んでくる敵の雷撃機にぶつける積りでした。


■Image credits: Official U.S. Navy Photograph,
now in the collections of the National Archives.


機首上面、エンジンカウルの上に12.7o×2門という、
それなりに強力な前面武装を持っていたし、
ある程度の運動性もあったので、SBDでも艦隊護衛に使える、
と思ってしまったのかもしれませんが、さすがにそれは無理がありました。

アメリカ海軍機が日本海軍機と全力でぶつかり合う最初の戦いだったので、
情報不足からゼロ戦を始めとする日本側の航空戦力を甘く見ていたのが、
そもそも、敵は戦闘機を付けて来ないとでも思ってたのか…。
ところが彼らがチョロイ相手と思ってた日本の雷撃機は、
アメリカのものに比べ、はるかに高速で飛んできたのです。
この辺りがアメリカ側の誤算、その一だったと思います。

18機ものSBDを朝の索敵に投入してしまったのはフレッチャーの失策ですが、
その後、さらに攻撃隊から8機ものSBDを引き抜いてしまったのは、
おそらくフィッチの失策でしょう。
これらの機体が攻撃隊に入っていれば、戦いの流れが
違うものになっていた可能性は高いと思われます。




低空を重い魚雷を抱えて突っ込んでくる雷撃機相手ならSBDでも…と考えたのでしょうが、
不幸にして日本の97式雷撃機は380km/h近い速度が出せる高速機だったのです。
(この時期のアメリカ海軍雷撃機、TBDはせいぜい330km/h)
これはSBDの410km/hより30km/hほど遅いとはいえ、圧倒的なまでの差は無く、
10q近い距離でお互いを発見することになる晴天下での航空戦では、
これに追いつくには、かなりの時間がかかりました。
(時速30qで10q先の相手に追いつくには単純な直線距離なら20分もかかる)

さらにアメリカのマークIII魚雷のような180q/h以下の低速での投下、
という制約もなく、低空を300q/hもの速度で突っ込んでくるため、
結局、SBDは雷撃機の迎撃にはほとんど役立ってません。
この点は、完全な誤算だった、と言っていいでしょう。

どうもこの辺り、97式艦攻の性能をアメリカ側は全く知らなかったフシがあり、
日本の雷撃機の高速性に驚いた様子がうかがえます。
アメリカに大きな衝撃を与えたのはゼロ戦の性能よりも、
むしろこの97式艦爆の性能だったような印象もありますね。



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