■マッカーサーの庭とニミッツの池

今回は最初に、なかなか説明の機会が無かった、
太平洋戦域におけるアメリカ陸軍と海軍の縄張りを確認してしまいましょう。
ちょっと脱線ではあるのですが、意外に重要というか、
とりあえず太平洋戦争中のアメリカの動きは
この辺りを知っておかないと全く理解できないと思われるからです。

そもそも、南部太平洋はオーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカ
いわゆるABDAの各植民地が入り乱れており、このため、
当初はその連合司令部(American-British-Dutch-Australian Command/ABDA Command)
がこの地域に置かれていました。
が、速攻でイギリス(マレー半島周辺)とオランダ(インドネシア)の植民地が
日本に占領され、アメリカ植民地のフィリピンもまもなく同じ運命をたどります。

この段階で、もはや誰もあてにできねえ、
と太平洋戦線の主導権を握ったのがアメリカでした。
1942年の3月、日本の攻勢を受けてオランダが脱落した後、イギリスの承認を得て、
太平洋地域全体を自らの指揮下に置くことを決定します。
当時のイギリスはヨーロッパで手一杯ですから、特に文句もなかったみたいですね。
ただし、この後オーストラリアとニュージーランド
(イギリス連邦だが独自の軍指揮系統を持ってた)から別の提案があったのですが
これをあっさり却下、以下のような作戦地域(Theater)の区分を採用し、
これら全区画を、それぞれのアメリカ軍司令部が指揮することにしたのです。

ちなみに厳密にはこの地図には入ってない地域として、
日本の津軽海峡から北の北太平洋と、
南アメリカ大陸沿岸部の南東太平洋もありました。



さて、このうち最大の面積を持つ、中部太平洋は海軍の太平洋方責任者ニミッツが指揮を執り、
南太平洋もニミッツが任命した海軍将官の指揮下に置かれることになります。
ここには無い北太平洋もニミッツの指揮下に置かれており、
こうして見ると太平洋戦争は海軍(と海兵隊)の戦争だ、というのがよくわかります。

唯一の例外が南西太平洋エリアで、オーストラリア本土とインドネシア、
そしてフィリピンまで含んだ地域は陸軍の管轄とされ、
その指揮官に任命されたのがフィリピンから3月にトンズラして来たマッカーサーでした。
彼はオーストラリアに脱出直後、その指揮官への任命を打診されてます。
(ただし正式な発令は遅れて8月になったらしい。これはニミッツも同じ)

そもそもフィリピンがある南西部の太平洋地域はアメリカ陸軍の縄張り、という面が強く、
(対してアメリカ海軍の総本山がハワイだ)
おそらくその結果、こういった分割がなされたのだと思われます。

太平洋戦争の初期、日本の戦闘機がアメリカの陸軍機P-40やP-39とばかり戦っているのは、
開戦からしばらくの間はアメリカ陸軍の支配するこの地域が主戦場だったからです。
真珠湾から西だとアメリカ海軍は意外にまともな航空基地を持ってませんでした。

逆に、アメリカによる反撃が始まった後、アメリカ海軍と海兵隊がソロモンから西には行かず、
そのまま北に向かってしまった(というか北東のマーシャル諸島方面に逆走した)のも、
マッカーサー率いる陸軍が戦略的価値なんて無いに等しいフィリピンにこだわったのも、
その理由は、この両軍の担当区分図を見れば、あっさり理解できると思います。
(フィリピンの場合、マッカーサーの安っぽいプライドが原因という面もあるが…
ちなみにアーノルド率いる陸軍航空軍は早くB-29の基地が欲しかったため、
陸軍のフィリピン攻略ルートより海軍の北向きルートに魅力を感じていた。
このため密かにマッカサーを裏切り、海軍支持に回っていたフシがある)

問題はソロモン諸島で、実は真ん中で陸軍と海軍の管轄に別れるのです(笑)。
3月の段階ならば、この辺りが主戦場になる、とわかってたはずなんですが…。
どうもこれ、より南側にあるニュージーランドが海軍の管轄とされたため、
そのまま分割線を北側まで引き伸ばした結果みたいですね。

とりあえずアメリカ海軍&海兵隊最初の反撃の舞台になった
ガダルカナル島、ツラギ島などは海軍の縄張りでしたが、
その西に位置するブーゲンビル島は完全に陸軍の縄張りです。

それでもソロモン諸島での作戦は、1943(昭和18年)年11月に始まった
最後のブーゲンビル島攻略作戦まで、
海軍と海兵隊が主になっていたのは間違いありません。
自分が追い出されたフィリピンの奪回しか頭になかったマッカーサーは、
この戦域にはあまり興味を示してませんから。

なので、おそらくニミッツの指揮下に動いたと思うんですが、
名目上は最後のブーゲンビル島攻略などは、
マッカーサーの指揮下に入っていた可能性もあります。
ここら辺りはちょっと確認できず。

ついでに、今回のMO作戦に対するアメリカ空母部隊の作戦海域も、
完全に陸軍の指揮圏内なんですが、アメリカ空母機動部隊は完全にこれを無視(笑)、
ニミッツからの指示だけで動いてます。
このため、両軍の意思の疎通は全くうまく行っておらず、
アメリカ陸軍の索敵機が得た情報が、海軍に渡っていた様子がありませぬ。

この段階ではまだマッカーサーもキチンとした司令部を立ち上げてなかったのか、
あるいは先に見たように正式な発令がまだだったので、これを無視したのか、
ここら辺りはどうもよくわかりませぬ。
まあ、私がニミッツだったとしても、あらゆる戦争のシロウト、
マッカーサーに作戦指示を譲る気にはなりませんが…



当時の日本軍パイロットの戦記を読んでると、開戦直後からしばらくの間は、アメリカ陸軍機ばかりが出てきます。
P-40なんて、そういった戦記の定番キャラですが、これは開戦当初に日本軍が進んだルート、
フィリピン、そしてインドネシア周辺は主にアメリカ陸軍が配備されていた地域だったからです。




こちらも初期のゼロ戦のライバル、という印象があるF4Fですが、
真珠湾攻撃の時は飛び上がっておらず、空中戦は発生してません。
開戦直後に攻め込んだウエーク島で、初めてゼロ戦との空中戦が行われる事になります。
(例のウェーク島の4機のF4Fで、相手は二航戦のゼロ戦)

ところが、その後しばらくアメリカ空母機動部隊、
そして海軍航空基地と日本の航空部隊は戦う事がありませんでした。
なのでウェーク島の戦闘を最後に1942年5月7日の珊瑚海開戦まで、
F-4Fとゼロ戦との空中戦は発生してないのです。
すなわち、開戦から半年近くF4Fはゼロ戦とは、まともに空中戦を戦っていません。
両者が太平洋戦初期のライバル、という印象はあまり正しくないわけです。

それ以降もミッドウェイで戦ったくらいで、この機体がゼロ戦と死闘を繰り広げることになるのは、
結局、1942年8月に始まるソロモン諸島へのアメリカ軍の反撃、
いわゆるガダルカナルの死闘からとなるのでした。



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