■1942年5月の戦場の朝は索敵で始まる

さて、8日の朝を迎え、両軍の状況を大きく左右する状況が一つ、明らかになります。
天候です。
前日までTF17が居た位置にあったスコールを伴う前線が
徐々に東に向かい、この日の朝から日本のMO機動部隊は
この雲の多い悪天候の中に入ってしまいました。

対してずっと南下してしまったアメリカのTF17は、その圏外に出てしまい、
多少の雲があってもほぼ快晴の下に置かれます。

悪天候は空からの発見を困難にする、という利点があり、
対して晴天は空母機動部隊は隠れる場所がない、という事を意味します。
この空からの攻撃を避けるため、逃げ込む雲があった、
という事が日本の五航戦の空母の運命を大きく分ける事になるのです。

この点は重要なので、覚えておいてくださいませ。
その上で、この日の戦いを見てゆきましょう。

これまでどんだけの部隊が戦闘に参加してるのだ(主に日本側が)、という
戦闘図になっておりましたが、最後の最後、
8日の朝の段階で戦闘に参加していたのは
、両海軍の主力打撃力、MO機動部隊とTF17のみでした。

日本側の主役であるはずのポートモレスビー攻略部隊は
すでにはるか北西に退避済み。
さらに夜戦中止となった祥鳳なき後のMO主隊は、
古鷹と加古をMO機動部隊に派遣した後、補給のため、
これも夜の間に一路北上してました。

一方でアメリカ側の別動隊、巡洋艦と駆逐艦からなるTG17.3も
ラバウルから来た一式陸攻の攻撃を受けた後、もうやってられんわ、
というような報告を残して南に変針、オーストラリア本土に向けて退却中でした。

ちなみに気の毒なUSSネオショーは、実はまだ沈んでおらず、
この後も乗組員が救助されるまで数日に渡って漂流を続けてました。
が、位置的にはもっと南東で、この戦闘に巻き込まれる心配はありませんでした。
よって、この日この朝この戦場に居たのは、両機動部隊だけだったのです。

ちなみに戦場のちょうど中心と言っていい東経155度、南緯13度の地点で
この日の日の出は6時10分ごろでした。
この海域の風はやはり南東から吹いており、
朝のTF17周辺の風速は10m以上とされますので、
やはりそれなりに強い風が吹いてたようです。

さて、ではこの日の動きを日本側のMO機動部隊から見て行きましょう。
例によって、夕撃旅団謹製戦場の地図を造ってみたので、まずはそれを。



夜の間に日本のMO機動部隊が北上、アメリカのTF17が南下したため、
南北に長い海域で戦われる事になったのがこの8日の決戦の特徴です。

MO機動部隊は当初、単純に北上したのですが、少し西に行っておいた方が
敵との距離が離れすぎずに済む、と考えたようで、一度西に向かった後、再度北上してます。
その後、夜明け直前に反転して前夜、敵が居た方角である南西に向かいます。

当然、夜明けとともに索敵を計画してたわけですが、
五航戦は昨日夕方の薄暮攻撃で艦攻の多くを失っており、
索敵に艦攻を投入するとなると、その攻撃力のさらなる低下が避けられません。
このため、MO機動部隊司令部に、そちらの重巡から水上機を出せないか、
できればMO主隊(第六戦隊)からも索敵機を出すよう頼めないか、
という“意見開陳”なるものを行ってますが、シカトされてます(笑)。

そもそも先にも書いたようにMO機動部隊の重巡洋艦、羽黒と妙高の水上機は
すでに破損して使用不可だったはずで、これを知らなかったのか、
あるいはこの段階では修理が済んでいたいのか。
とりあえず、戦闘詳報には使用可能になった、という報告は一切無いですけどね。

同時に“意見開陳”されたMO主隊もほとんどの機体を
デボイネに向かわせてしまっており、水上機はほとんど残ってなかったはず。
ちなみにMO主隊側の戦闘詳報には全くこの“意見開陳”は出てこないので、
さすがにMO機動部隊司令部もわざわざ問い合わせるまでもない、
と判断したのかもしれませぬ。

この辺り、MO機動部隊の戦闘詳報では、朝の天気が荒天であり、
重巡からの水上機は出せなかった、
とだけ書かれてますが、そもそも出せるような水上機は
日本側の重巡には、もう残ってなかったんじゃないか、というお話でした。
どうもこの人たちの記録は、よほど用心深く読まないといかんなあ…。


■Image credits:Official U.S. Navy Photograph,
now in the collections of the U.S. National Archives.
Catalog: #80-G-K-4596



巡洋艦や戦艦に積まれていた水上機の運用は発進だけなら、
カタパルトで強制射出するので、それほど困難なものではありません。

ただし帰還時はこうやって水上に着水した上に、
母艦からクレーンで釣り上げてもらう必要があります。
このため、荒れた海上だとそもそも着水ができないし、
出来たとしても、写真のように艦から人が機体に飛び乗って
デリック(クレーン)のフックを機体の上に掛ける、なんていう作業は困難です。

なので実はかなり使いどころが難しいのが、この水上機で、
実際、7日の戦闘では日本の重巡から出た水上機は全て回収を諦めて、
デボイネの水上機基地に向かわせてしまったわけです。

ちなみにアメリカ側は空母が居るならわざわざ水上機を使う必要はない、という感じでした。
少なくとも珊瑚海の一連の戦闘で、巡洋艦の水上機の利用を検討したのは
一度だけ、7日に祥鳳を沈めた攻撃隊が帰還した直後、手持ちのSBDが無い状態で、
攻撃隊が再兵装するまでに敵艦隊を索敵するかどうかを検討した時だけでしょう。
結局、この時は悪天候を理由に出撃は行われませんでした。

ちなみに撃ち出すだけなら簡単、という点を活用しようとした例として、
沈没直前のドイツのビスマルクの水上機があります。
沈没直前、翌日の朝にはイギリスの戦艦と遭遇しておしまい、
という状況下で、せめて各種記録を本国に届けるのだ、という事で
日誌やら海図やらを満載した水上機の発進が試みられてます。
が、この段階ですでに砲撃によってカタパルトが破損しており、
その発進に失敗、貴重な記録とともにビスマルクは沈むことになるのです。




このため結局、MO機動部隊は自前で索敵機を出すしかなく、
夜明け直後の6:15頃、翔鶴4機、瑞鶴3機の計7機を発艦させました。
(MO機動部隊の戦闘詳報だと翔鶴も3機で計6機だが、翔鶴飛行機隊戦闘行動調書では
戦闘詳報には無い230度線の索敵も行って4機出たことになってる。
索敵角度の整合性からしても、現場の報告書であることからも、こちらが正しいと考えてよい)
ここでもう一度、同じ地図を。
例によって索敵機発進位置から伸びてる点線が索敵範囲です。



索敵距離は通常距離である250海里、角度は南側をくまなく探せる140度〜230度。
(先にも書いたがMO機動部隊の戦闘詳報だと215度だがこの数字は西の索敵が浅くなる。
よって、ここでは飛行機隊戦闘行動調書の230度の数字を取る)

ただし、出撃した機数は前日の朝の12機に比べ、約半分である7機だけでした。
このため、前日のように2機一組で飛ばして完全を期す、という事をやらず、
一機ずつ飛ばして、その索敵範囲を維持する事になりました。
前日朝の索敵で、2機一組は何の意味もなかったのは証明済み(涙)でしたからね…。

で、この日は単機の索敵機が昨日とは別物、というキチンとした発見と報告を行う事になるのです。
この辺り、やはり日本側の索敵技術は完全に個人の技量によるなあ、という印象です。
個人の技量に差があるのは当然ですが、それを埋めるために、
訓練があるわけで、ここら辺りは考えさせられる部分ですね。

ちなみに、この索敵機の発進後、7:50の段階で、
MO主隊から派遣された重巡2隻、古鷹と加古がMO機動部隊に合流しました。
これによってMO機動部隊の戦力は以下の通りになります。

■空母:瑞鶴(五航戦旗艦) 翔鶴 計2隻

■重巡:妙高(MO機動部隊旗艦) 羽黒 古鷹 加古 計4隻

■駆逐艦:潮(うしお)、曙、時雨(しぐれ)、夕暮、白露 計5隻

(駆逐艦 有明は、例の翔鶴索敵機の搭乗員救助に派遣されて、不在)


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