■配備された以上、俺の戦力だ

さて、このMO作戦を行っていたのは、この地域の侵攻を担当していた
第四艦隊(4F)を中心とした南洋部隊なのですが、
この人たち、どうも空母に夢を見すぎではないか(笑)、という部分があります。
空母さえあれば月にだって行けるさ、と思ってたんじゃないかという、
夢見る十代の乙女、みたいな連中なのです。
このため彼らに与えられた空母戦力への無理解が、この戦いの結果を大きく左右してます。
そこらあたりもちょっと、見ておきましょう。

そもそも南洋部隊は海戦直後のウェーク島でたった4機のF4Fに散々な目にあった後、
二航戦の蒼龍、飛龍を借りてこれを制圧、
その後、島への上陸に成功した、という経験がありました。

さらにラバウル攻略の時にも赤城、加賀の一航戦と、
翔鶴、瑞鶴の五航戦を配下に入れて作戦を行った経験があり、
空母運用の実績は既に十分にあったのですが、
このMO作戦における空母運用法は理解に苦しむ部分があります。

ちなみに、MO作戦の目標はポートモレスビー占領なのですから、
空母の投入は、その援護のためでなくてはなりません。
が、その“援護”の範疇がどう見ても広すぎるのです。
日本語で言うと、むちゃくちゃだ、という感じですね。



以前も一度載せた写真ですが、MO作戦に関わった空母たちをズラリと。
左端から、最初は単独で派遣予定だった加賀、
そして念願の南洋艦隊(第四艦隊)が手に入れた、
彼ら専属の空母(改造空母だけど)祥鳳、
そして実際に派遣された正規空母の翔鶴と瑞鶴。

ついでに、南洋部隊は、ウェーク島での活躍の記憶が鮮明だったのか、
蒼龍、飛龍の二航戦の派遣を当初は希望してたようです。
…山口閣下が率いる二航戦が珊瑚海に行ってたら、
また歴史は変わっていたかも、と思いますが、ここら辺りは誰にもわからない部分ですね。
ちなみに代わりに五航戦が現地に派遣されたのは、もっとも練度が低いと見られていた
彼らに経験を積ませるためだった、と戦史叢書 第49巻にはあるのですが真偽は不明。
どっちにしろ、日本の空母部隊は全力出撃する気は全くなかった、という事ですが。

で、この五航戦の派遣と、祥鳳の南洋艦隊への移籍はどちらも4月10日決定され、
両者とも、トラック諸島への集合が命じられます。
が、その準備に入った直後にドゥーリトルの東京爆撃があったため、
どちらもこのアメリカ空母機動部隊の追撃を命じられ、その後、
改めてMO作戦に回されることになるのです。

ちなみに、この追撃戦の時、祥鳳は長時間にわたって
時速20ノット(約37km/h)という高速航行を行っており、改造空母とはいえ、
その機動力は十分だ、という事を証明しています。
(速度は祥鳳の戦闘詳報による)
この高速性を殺してしまったのが、南洋部隊の司令部の作戦なのですが、
この点はまた後で見ましょう。

この中で小型の改造空母とはいえ祥鳳は南洋部隊(第四艦隊)専属とされたので、
MO作戦後も現地に留まる予定であり、
これの配備は南洋艦隊司令部で歓迎されました。

が、MO作戦開始後約1週間、珊瑚海開戦初日(珊瑚海海戦は2日に渡って展開される)
に早くもこれが撃沈されてしまい、第四艦隊司令部は衝撃を受けることになるのです。
といっても、後で見るように改造空母、補助的な航空戦力でしかない空母を
単独でアメリカ空母機動部隊の前に放り出したのですから、当然の結果なんですけども…。
この船は南洋部隊(第四艦隊)司令部に殺された、と言っていいと思います。

改造空母とはいえ元は軍艦であり、先に見たように18ノット以上で航行が可能だった
祥鳳の指揮官たちは五航戦側の支持を得て、
上陸部隊とは離れて瑞鶴、翔鶴と共にに行動することを希望しました。
独自に敵空母の索敵、撃破に当たる空母機動部隊に航空戦力を集中し、
その打撃力を有効に使うことを、南洋部隊司令部に訴えたわけです。
当然の要求と言っていいでしょう。

が、第四艦隊司令部の参謀だった川井大佐はこれを拒否、
上陸部隊を安心させるため、その輸送艦隊と近距離、
常に視界に入るような距離での護衛を祥鳳に命じます。
すなわち他の二空母とは切り離された空母の単独運用です。

どうもこの時の上陸作戦では陸軍の南洋支隊(海軍の南洋部隊と混同しないよう注意)が
大きな役割を担ってるのですが、それが敵の航空部隊からの攻撃を恐れており、
その要望によって、素人目にもそこに空母が居る、という援護を行うことになったようです。
ただし、陸軍の要請によってMO作戦に空母が派遣された、というたまに見かける記述は
当時の指令系統を考えてもありえない筈で、恐らく陸軍の南洋支“隊”を
海軍の南洋“部隊”と混同してるように思います。

ちなみに、それまでの上陸戦は海軍陸戦隊が主力でした。
海軍とはいえ、連中は戦車まで持っている上に基地建設のための部隊もいました。
アメリカの海兵隊をより小規模にしたのが日本海軍の陸戦隊なのかもしれません。

で、この上陸部隊の輸送艦を直接護衛する、という話は
さすが貴重な正規空母、しかも借り物で一時的に指揮下に入っただけの
五航戦の二空母にこの任務をやらせるのは気が引けたらしく、
その結果、南洋部隊(第四艦隊)直属の祥鳳がその役割を担う事になったわけです。

が、ゼロ戦7機しかない空母で2隻の正規空母からなるアメリカ機動部隊の攻撃を防げるわけもなく、
海戦の初日、最初に沈む空母となるのでした。
(祥鳳撃沈時のアメリカ側の襲撃は戦闘機だけで倍以上の17機、
艦爆(爆弾)艦攻(魚雷)は合計74機だった。もはや、どうしようもないだろう。
アメリカ側の数字はアメリカ海軍Fighter DirectorのAction reportによる)

ちなみにこの直前、五航戦からゼロ戦3機を搭乗員ごと借り受けたい、
と祥鳳側から要望が出てますが、これも南洋艦隊司令部により拒否されてます。
調べれば調べるほど、祥鳳は気の毒な艦で、
南洋部隊(第四艦隊)配属になったゆえに殺された、という印象がありますね。

これが南洋部隊司令部の空母運用の拙さその1でございます。

その2は正規空母部隊に対するものでした。
まず200機からの戦闘機を持つオーストラリア北東部にある基地、
タウンズヒル基地の攻撃を、ゼロ戦を37機しか搭載してない
五航戦の翔鶴、瑞鶴に対して要請してます。
…気は確かなんでしょうか(笑)。

さすがに驚いた五航戦司令部がこれに反対、さらに南洋部隊(第四艦隊)の頭越しに
連合艦隊司令部にこれを訴えて圧力をかけ、命令を取り消させてます。

さらに南洋部隊による正規空母に対する変な指令その2が、
当時は南洋部隊の管轄下にあったラバウル基地の部隊に対するゼロ戦輸送の依頼でした。
当時、戦闘によって消耗しつつあったラバウル基地に9機のゼロ戦の輸送を依頼したのです。
(翔鶴が5機、瑞鶴が4機運んだ)



真珠湾の時から活躍しており、日本海軍の主力、という印象のあるゼロ戦ですが、
それはあくまで第一線部隊であって、珊瑚海海戦の時でも、一部の部隊では
ようやく旧式の96式艦戦からゼロ戦に切り替わりつつあった時期でした。

先にも見たように祥鳳の12機の戦闘機のうち5機は96式艦戦でしたし、
ラバウルですら、1月の占領当初に配備されたのは96式艦戦でした。
さすがに5月の珊瑚海海戦の時にはゼロ戦に切り替わってましたが。




ただし、翔鶴、瑞鶴による機体輸送は実際に前例がありました。
1月のラバウル上陸戦の時にも五航戦の翔鶴と瑞鶴に96式艦戦の輸送を
南洋部隊は頼んだことがあったのです。
なので、軽い気持ちで命令を出したのかもしれません。

が、1月の時は作戦終了後、撤退時の輸送だったので、トラブルで日程が遅れても
(実際、遅れたのだ)影響はありませんでした。
が、今回は五航戦が作戦海域に向かう途中、つまり作戦中の依頼です。
…ホントに気は確かなんでしょうかね(笑)。
で、案の定、この輸送任務は天候の影響で遅れまくり、これが後に
肝心な時に肝心な場所に戦場最強の打撃力が存在しない、という悲劇に繋がって行きます。

そんな南洋部隊の責任者は、その中核部隊である第四艦隊指令の井上成美中将でした。
(ちなみに“なるみ”ではなく“しげよし”と読む)
開戦直後のウェーク島攻略、このMO作戦と、どうもイマイチな実績の結果、
この直後に解任され、左遷されて本土に戻る彼ですが、
後に日本の終戦工作で大きな役割を果たすのはよく知られています。

その戦果だけを見ると凡将のそしりは逃れられない指揮官ですが、
この人の場合、人物としては立派なところがあり、自ら「戦が下手だ」と認めてます。
そもそも装備貧弱な第四艦隊指令(艦隊指揮艦は練習艦で非武装の鹿島だ…)に
井上さんが着任したのは、開戦反対派だった彼を中央から遠ざけるためだった
という話もあり、なんともキナくさい部分はあります。

特に先に見たように、第四艦隊の参謀は明らかにボンクラ揃いですから、
部下に恵まれなかったのかなあ、という気もします。
それでも、その部下を統率できなかった責任はあるんですけども。

その後の終戦工作における彼の活躍を見ると、
井上さん、間違いなく相当なキレモノだとは思うのですが、
単純に“戦が下手”なのか、何か他に理由があったのか、どうもよくわかりませぬ。
日本の軍人で、もっとも評価が難しい人かもしれません。


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