■MO大作戦

さて、てなわけでニューギニア南岸にあって、
連合軍の強力な航空基地があるポートモレスビーはうっとうしいから攻略しちゃえ、
という感じに日本海軍が立案したのがMO作戦でした。
その作戦中に発生するのが、太陽系初の空母艦隊決戦、
珊瑚海海戦となるわけです。

前回はそのMO作戦開始直前までの日米の状況を確認したわけですが、
今回は、その作戦の発動までを見てゆきます。

ちなみにMO作戦は戦後の呼称でも、現地での呼称でもなく、
当時の軍の命名による正式な作戦名称です。
日本人なんだから、テケテケ ポートモレスビー大作戦とか、
もっと工夫があってもいい気がしますが、この前後の作戦名は、
SR作戦(サラモア・ラエ攻略)、FS作戦(フィジー・サモア攻略)、MI作戦(ミッドウェイ攻略)と、
作戦目標の頭文字をとった作戦が多いのでした。

…いや、だったらポートモレスビー攻略はPO作戦じゃないの?
ここらあたりも、どうもよくわからん部分ですね、日本海軍。



さて、前回までの復習。
開戦から4ヶ月、1942年(昭和17年)の3月までに日本海軍はビスマルク諸島と、
ソロモン諸島の西端にあるブーゲンビル島の攻略を終わり、その占領下に置きます。
幸い、アメリカ軍もヤル気がありませんでしたし、第四艦隊を中心とする南洋部隊は
やりたい放題だったわけです。

これで日本の南太平洋の根拠地、トラック(チューク)諸島の安全は確保されるのですが、
今度はラバウルを始めとするこの一帯が、
ポートモレスビー周辺の連合軍航空基地から空襲にさらされる事になります。

何度か書いてるように、1942年2月ごろからアメリカ軍側も反攻に移りつつありました。
3月には正式に大統領命令で反撃開始が決定されてますから、ニューカレドニア、サモア、
そしてオーストラリアの鼻先に日本の前線基地が出来たとあっては捨てておけず
本格的にその対策に出て来るのです。

このため、日本海軍は当初から予定があったポートモレスビー攻略を急ぐ事になるのでした。
地図で見ると、ラエとサラモアからワーッと南に走っていけば占領できちゃいそうな感じですが、
この一帯には最高峰が4000mを超えるオーエンスタンレー山脈が東西に走っており、
とても陸路で攻略するのは無理でした(歩兵はともかく、重火器も戦車も越えられない)。
そこで、海上から艦艇を使って上陸部隊を送り込み、その制圧が目論まれます。
これがMO作戦の主な目的ですね。
(ちなみにMO作戦失敗後、山脈超えの陸路の作戦が決行されるがやはり失敗に終わってる)

が、ニューギニア島の南側、珊瑚海周辺は連合軍側の海で、
その制海権は完全にアメリカ海軍にありました。
さらに航空戦力でも、先に見たように珊瑚海西側周辺はポートモレスビーがあり、
その南のオーストラリア本土にも航空基地あって、その進出圏内となります。
そんな海に上陸部隊の輸送船が突っ込んで行くの?という当然の不安が出てくるのです。

この時期はラバウルとラエのゼロ戦部隊ががんばっていて
少なくともビスマルク諸島とニューギニア北岸ぶの航空優勢は
まだアメリカに奪われていませんでした。
が、MO作戦の航路となっている珊瑚海までは、
さすがに遠すぎてその上空援護は無理がありました。

でもって、そのような状況で、さらにアメリカの空母機動部隊が出てきてしまったわけです。
それが待ち受ける珊瑚海に脚の遅い輸送艦隊(8ノット/時速15kmで軍艦の半分程度の速度だった)
が突入したら、これはカモがネギしょって、さらにタレまで握り締めて訪問したようなものになります。
(速度が遅いほど、危険海域への滞在時間が長くなる)

さらにこの時期になると、アメリカ陸軍航空軍による航空兵力の増強が始まっており、
オーストラリアの北東部、つまり珊瑚海沿いの基地に、
戦闘機だけでも200機を越える数が配備がされてました。
日本海軍も、この情報を墜落した敵爆撃機から捉えた捕虜の尋問によって知る事になります。

…ええ、知っていたんですよ(笑)。
なんぼ五航戦の正規空母二隻と改造空母の祥鳳が加わったと言っても、
ゼロ戦の搭載数は翔鶴17機、瑞鶴20機、祥鳳8機(後事故損失により7機)、
全艦合計でも45機(作戦開始時は44機)にすぎません。
あとは祥鳳に5機の旧式戦闘機、96式艦戦があったものの、さすがに戦力外でしょう。
(ちなみに戦史叢書49巻と祥鳳の戦闘詳報では戦闘機の数が一致しない。
当然、ここでは艦に乗っていて生き残った人間が書いた戦闘詳報の数字を採る)

すなわち、44機のゼロ戦で、互角の戦力を持つであろう敵空母機動部隊とやりあって、
さらに陸上基地から飛んで来る200機近いアメリカ陸軍の戦闘機と戦え、という話になります。
繰り返しますがこの戦闘では、日本側の陸上基地の航空戦力は期待できませぬ。
一体全体、どうやって勝つつもりだったのか、
今となっては全くわからない、としか言いようが無いです。
なんなんでしょうね、この作戦…。

さらに驚くべき事には(笑)後で見るように、空母機動部隊には、
オーストラリア本土の敵の地上航空基地も叩いてね、という命令が
現地の南洋部隊司令部から出されていたのです。

すなわち、200機を超える戦闘機が待ち構える
敵の勢力圏に、たった二隻の空母で突っ込んでいってちょうだい、という話です。
さすがにそれは無理、と五航戦側から反対され、
さらに連合艦隊司令部からも、現地の南洋艦隊司令部に警告が行き、
最終的に、この命令は取り消されてます。

……まあ、日本軍の事を調べていると、こんな事は日常茶飯事なんですけどね(笑)。
日本海軍の参謀の皆さん、大将から下士官まで、
おそらく足し算引き算が苦手だったんだと思います。
教育って大事だと思いますよ、ホントに。

なので、もし珊瑚海海戦がおこらず、
そのままポートモレスビー突入が実行に移されていたら、祥鳳はもちろん、
五航戦の翔鶴、瑞鶴共にただでは済まなかったでしょう。
ある意味、空母艦隊決戦が起こってMO作戦が放棄された結果、
五航戦の二空母はある程度の損害だけで生き延びることができた、とも言えます。

もっとも現地に居たアメリカ陸軍に雷撃機は無く、この時期の急降下爆撃機は
ドーントレス改造のA-24がわずかにあるくらいでした。
すなわち、艦艇攻撃の専門部隊は無いのです。

この時期、オーストラリアとニューギニアから西は
フィリピンから落ち延びてきたマッカーサー将軍率いる陸軍の管轄となってましたら、
この地域にアメリカ海軍の航空部隊はいませんでした。
(ただしマッカーサーのこの地域における正式な指揮官任命はもう少し後。
このためか珊瑚海海戦の間、海軍はこの作戦区分を完全に無視して、
真珠湾に居る海軍側の責任者ニミッツの指揮を受けて動いた。
このためか、後で見るようにアメリカも陸軍、海軍の連携は悪かった)

なので、この時期のアメリカ陸軍の対艦攻撃は、
B-17やB-24による高高度からの精密爆撃か、双発爆撃機による低高度爆撃しかなく、
艦隊にとって、それほど直接的な脅威にはならなかった可能性もあります。
が、それでも上空の戦闘機を全部落とされた後の艦隊は無傷ではすまないでしょう。
(爆弾を高速な水平速度で水面に落とし、水面を石が跳ねるように
敵艦に突っ込んで行かせる反跳爆撃は、まだほとんど行われてないはず。
そして後に脅威となったロケット弾もまだ登場してない)

さらに言えば上陸部隊の輸送船団は装甲無しの船で人間と兵器を満載してますから
機銃掃射を受けるだけでも厳しいものがあり、ウェーク島の時のように、
戦闘機相手でも、いいようにやられてしまう可能性は残ります。



ちょっと脱線。
どうもドイツの電撃作戦で急降下爆撃が大活躍だったらしいぜ、
兵装なんだ、という会話の元に(一部推測)、アメリカ陸軍が急遽採用したのが
海軍の急降下爆撃機、ドーントレスでした。
これをA-24バンシーの名で1941年から配備しております。
ちなみにアメリカ人でも存在を知らないような機体ですが、900機以上が生産されており、
まあアメリカ恐るべし、という感じでしょうか。

でもって開戦前から、フィリピンは真っ先にやられる、とアメリカもわかっていたので、
その援護に現地へ送り込まれて、開戦後も実戦投入されてるんですが、戦果はよくわかりませぬ。

ちなみに第二便以降はフィリピン到着が開戦後になってしまい、
急遽、オーストラリアに陸揚げされ、一部がオーストラリア空軍へと供与されてます。
が、こちらも実戦投入されたはずながら、戦果がよくわかりません。

ちなみに船便を解いてみたら、足りないパーツだらけだった、という話もあり、
あまり戦力にはなってなかった、という感じではあります。
それでもMO作戦の時には、この機体がオーストラリアにありましたから、
日本海軍が珊瑚海に突入してたら、その迎撃を受けたであろう可能性はあります。



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