■MO作戦への道

さて、ではそんな珊瑚海海戦の原因となったMO作戦について、
少し詳しく見ておきましょう。

ただし、ここら辺りはまともな資料が手に入らず、かといって防衛研究所の資料室まで行って
資料を探すのも正直面倒なので(そもそも指令文書類が全て残ってるかも怪しい)
日本軍の事実上の公刊戦史である戦史叢書(せんしそうしょ)の第49巻の記述を中心にまとめてます。
手抜きという気もしますが、事実関係を羅列しただけ、位置情報も時系列もめちゃくちゃな
あの本から情報を読み出してまとめるだけでも、一苦労なのですよ(笑)。
もうちょっと知恵のある人に書かせられなかったんですかねえ、あれ…

ついでに前回分の記事も含めて、
アメリカ側の行動は主に
The Official Chronology of the US Navy WW II(2000年発行の新版)によります。

さて、MO作戦は、陸軍よりも南方進出に熱心だった日本海軍が計画したもので、
オーストラリアの海上封鎖実行を目論んだ一連の作戦の一つでした。
まず基本的な情報として、戦場となったニューギニア島南東部と
ビスマルク&ソロモン諸島、そして珊瑚海の位置関係を確認しておきますぜ。
まず全体を例の地図で。

地図の中央下あたりにあるのがビスマルク諸島とソロモン諸島、
そしてニューギニア島南東部で、ここが太平洋戦争中盤の激戦地となってゆきます。
MO作戦も、この地域で行われた作戦でした。

でもって地図で見るとわかるように、ソロモン諸島は、
アメリカの拠点、南の三連星のニューカレドニア、フィジー、サモアに
対峙する地域となっているのです。
一方、ビスマルク諸島の北には日本の南太平洋の拠点、
トラック諸島がありますから、この海域で日米海軍が衝突するのは
ある意味、当然と言う部分がありました。



すでに日本は1月の段階で、空母機動部隊(一航戦&五航戦)の支援を受けて
ビスマルク諸島の要衝であるラバウルの占領に成功していました。
ここは日本の南洋本拠地、トラック諸島から1200km前後という場所で、
アメリカが航空基地や艦隊泊地を作ってしまったら、脅威となりますから、
日本側としても、これを抑えてなければならぬ、というのは理解できます。

ところが、それに続いてニューギニア島北側のラエと、
ソロモン諸島で水上機の基地が建築できそうな
ツラギ(上の地図には出てない。後の地図で)の攻略を決定します。
そこから派生して、さらにニューギニア島南部、オーストラリア本土の向う正面に位置する
ポートモレスビー攻略が計画される事になります。

戦史叢書(第49巻)によると、日本海軍が後のオーストラリア封じ込め作戦、
すなわち(FS作戦)の前段階として、
このニューギニア島南東部とソロモン諸島侵攻を考え始めたのは、
開戦から1ヶ月半後の1942年(昭和17年)1月29日ごろの事だったとしています。
意外に早い段階、という気もしますね。

そもそもは、アメリカとオーストラリアの連絡を絶ち、
さらにアメリカの南太平洋の前進基地、フィジー、サモアまで叩こう、という
オーストラリア封じ込め作戦(FS作戦)の準備ではあったようです。
日本の体力を考えると、そんな壮大な計画、とても可能とは思えませんが、
まあ、そこら辺りは今回の主題ではないので軽く流します(手抜き)。

ただし史実では開戦から半年の、6月のミッドウェイ海戦の敗北で
一気に弱気になった日本側が、
FS作戦を自主的に放棄してしまい、結局、ソロモン諸島で停滞してるうちに、
8月から始まるアメリカ側の反撃を受ける事になるのです。

日本の予想よりずっと早い(半年以上だ)このソロモンへの反撃開始によって、
まだ兵力で当時均衡状態にあった日本側を次々と打ち破って行くアメリカの戦いは、
OODAループの高速回転による勝利のいい例なんですが、これも今回はパスします。
(この段階での敗北は物量ではなく純粋に戦術、戦略の稚拙さによる。
この時期はアメリカも相当苦しいのだ。物量で押して来るのは1943年以降になる)

とりあえず、ここら辺りの状況を、もう少し現地寄りの地図で確認してみましょうか。



この地域には日本は北側から、アメリカは南東から攻め込む事になるのですが、
理由は単純明快、それぞれの拠点がその方向にあったからです。
日本には北側にトラック諸島があり、アメリカには南東にニューカレドニアとサモアがあります。

でもって、前回書いたように、少なくとも1942年(昭和17年)2月まではアメリカは守勢に回っており、
当初、この地域に日本が進出するのに、全く抵抗しませんでした。
ビスマルク諸島周辺はオーストラリアの勢力圏だったのですが、
その援軍要請をアメリカはあっさり拒否しています。

このため、当初、日本の進撃は快調でした。相手が弱いなら日本軍は無敵です。
この地域の侵攻担当は、海軍の第四艦隊を中心とした南洋部隊、
すなわち、あのウェーク島上陸作戦で散々な目にあった皆さんですが(笑)、
当初は快調に飛ばすのです。
(余談だが、陸軍のこの地区の担当は南洋支隊であり、海軍の南洋“部隊”と
混乱しやすいので要注意。実際、混同してる書籍を良く見る)

まず最初は、先に見た1月20日からに行われたビスマルク諸島侵攻でした。
ラバウル、ガビエン占領は例の一航戦&五航戦の航空支援を受けてあっさり成功、
この結果、日本海軍はラバウルに南方進出の基盤となる航空基地を建設します。

で、ここからは、よせばいいのにという感じの二方面作戦となって行きます(笑)。
すなわち、全く別方向に位置する西のニューギニア島と東のソロモン諸島の攻略を
日本海軍は同時進行で計画しはじめます。

最初はニューギニア島のラエ、サラモアへの侵攻を目論んだSR計画が立てられ、
それによって3月8日にラエ、サラモアへの上陸が決行が決まります。
それに続いて計画されたのが、ニューギニア島南部のポートモレスビーと、
反対方向のソロモン諸島のツラギを同時に攻略する、というMO作戦でした。
なんでまた、こんな距離の離れた場所を同時に…と思ってしまいますが、
まあ、何か計画の根拠はあったんでしょう。
さらにその間に、ソロモン諸島の一番西の島、ブーゲンビル島の攻略も決定されてます。

この計画段階では、第四艦隊を主力とする南洋部隊は完全に強気で、
空母の援護なんかいるか、俺たちだけで十分だ、とその実行にかかります。
が、1月に行われて大成功に終わったラバウル&ガビエン攻略は
アメリカ側が守勢に回ってる時の作戦でした。
しかし今回はすでにアメリカ側の反撃開始が決定された後、3月以降の作戦だったのです。
さて、どうなるのか。

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