■人命と戦争

この辺りの攻撃決定に至る過程に関する公式な資料は全くありませぬ。
戦史叢書は“敵は反転す”の報告を受けての判断だ、
で簡単に片づけてますが、攻撃中止の電文を出したのはその後なのだから、
それは考えにくいよ、というのは既に見た通り。
が、念のため、もう少しこの辺りを検証してみましょう。

そもそも空母の速度は、ムチャに無茶を重ねても32ノット(60q/h)がせいぜいです。
しかもそんな速度で長時間運航したら燃料はあっという間にカラになりますから、
通常はせいぜい20ノット(37km/h)前後が最高速度です。
よって430海里(796q)も先にいる敵が反転してから、
わずか1時間で、240海里(444.5q)付近まで近づけるずがない、というのは、
頭の悪い私でも3時間も計算すれば結論がでます。
極めて頭の優れた現役軍人さんならば、一瞬で計算できたでしょう。

さらに敵が必殺の間合いに居たところで、、
往復行程と攻撃で3時間以上はかかりますから、
15:30以降の出撃なら、その帰還は確実に18:15より後、
すなわち日没後の真っ暗闇の中になります。

ところが結成からまだ歴史が浅かった五航戦の航空隊は、
空母での夜間着艦訓練をやったことがありませんでした。
(日没後に、着艦直前まで持ってゆく模擬練習のようなものまではやっていた)
つまり、無事に生きて帰って来れる保証は全くないのです。
せっかく帰ってきても、暗闇の中の着艦失敗で人生おしまい、
という可能性は低くはありません。

となると、これは朝からの失態続きで焦った五航戦の司令部が
“司令部のオレ様たちのメンツを保つために、航空機部隊は死んで来い”
と命じたに等しい、いう話になります。
(航空作戦に関してはMO機動部隊司令官を無視して、
五航戦側で意思決定ができるようになっていたのは以前書いた通り)
実際、それ以外に合理的な説明が思いつきませぬ。

ちなみに森 史郎さんの著作「暁の珊瑚海」では、この辺りに事情について、
当時の各種記録に残ってない興味深い記述があります。
おそらく私の知らない手記、あるいは証言からの引用だと思われますが、
それによると五航戦の司令部では、反転したTF17の速度を20ノットと仮定した場合、
日没直後の18:30までに攻撃機発進の最大距離、
280海里圏内に入れる、と計算した上での決断だったとの事。
(ちなみに、この本は当時の関係者の証言など興味深い内容が多く、
一読の価値はあるが、事実関係の細部のツメがいろいろ甘いので、
読むのには注意がいる)

両者の距離は430海里と考えられてましたから、
18:30までに150海里その距離が縮まる、という計算です。
先に見たように敵反転の情報が入ったのは14:30ごろと見られますから、
4時間で150海里の距離を詰めるとなると1時間で37.5海里。
となると必要な両者の速度はそれを二分割して18.75ノット(1ノット=1海里/時)。
よってアメリカ側が通常の戦闘速度、20ノット前後を維持し、
こちらも同じ第一戦速、20ノットを維持し続ければ、確かに可能な数字です。

が、可能ですが、それは敵を攻撃圏内、それもギリギリの280海里の距離に捉える、
(そもそも本来なら攻撃を仕掛けるような距離ではない)
というだけの話で、日没後のそこから発艦、250海里以上、真暗闇の夜の海を飛んで、
灯火管制中で真っ暗な敵艦隊を真っ暗な海の上で見つけて攻撃して来い、という話です。
…アホかいな。

さらに後で見るように、五航戦司令部は、実際は18:30どころか、
2時間も早い16:30の段階で攻撃隊を発進させてしまいました。
これはどう計算しても、敵空母に届きっこない、という時間です。
…正直、五航戦の司令部が何を考え居ていたのか、全くわかりませぬ。
どうも、とりあえず攻撃隊を出撃させましたよ、という
既成事実さえ作っておけば、朝からの失敗の連打の言い訳が
なんとか成り立つ、とでも考えたんでしょうか。
ところが、極めて不幸なことに、実際のTF17は至近距離に居たんですね…

ちなみに夜間の航行では夜光虫によって航跡はある程度見えたらしいのですが、
これを高度1000m前後から見つけるのは至難の業でしょうし、
(少なくとも私は夜間飛行中の旅客機から見たことがない)
見つけたところで、真っ暗闇の中を動き回る敵艦に
爆撃、雷撃するなんていう攻撃は、第二次大戦中、一度も行われてません。
そもそも、夜間に敵が空母かどうかなんて、航跡の夜光虫からだけで
判断できるわけがないのです。

さらに夜間攻撃を前提としてない部隊である以上、照明弾を持っていたのかも怪しく、
(巡洋艦に積まれた索敵機などは、着弾観測用に積んでいた可能性が高いが)
上空に到達した後、どうする気だったのか、全く見当がつきません。

実際、艦載機にレーダーを積むようになった後のアメリカ軍でも
そんな攻撃はやってないのです。
ちなみにあの複葉ソードフィッシュ雷撃機にレーダー積んでた(笑)
イギリス海軍は、そのレーダーによる夜間の対艦攻撃を何度か試みてますが、
私の知る限り、作戦行動中の軍艦相手に成功した例はありません。
(タラント奇襲は港に停泊中で、場所はわかってるし動かないしという相手だった)

この時、当然、護衛の戦闘機はつきません。
艦攻か艦爆に誘導してもらう必要がある戦闘機が、
誘導機が見えなくなってしまう可能性が高い夜間の長距離出撃は無理だからです。
この辺り、夜間の奇襲攻撃なら敵の戦闘機の反撃もない、
と日本側が考えた可能性がありますが、
(アメリカの対空警戒レーダーについて全く知らなかった。
日本側がこれを知り、警戒するのはミッドウェイ海戦以降)
実際のTF17ははるかに至近距離に居たため、護衛戦闘機無しで、
その上空の戦闘機部隊の中に突入する事になり、
これが、その損害を広げた最大要因となってしまいます。

やはりどうも現場の搭乗員に、オレ様達参謀のメンツのため、お前ら死んで来い、
と言ってるに等しい作戦でしょう、これ。
朝の索敵のミスは現場の責任ですが、索敵機を南に集中させてしまい、
西に居たTF17を完全に見落とすことになったのは、原司令官の責任ですし、
その後も何も考えずに東に高速で航行を続けてしまった結果、
今になって距離が足りなくなったのは司令部に居た参謀たちの責任です。

現場としては、なんで俺らが尻拭いを…という感じでしょう。
考えられる限り最低な作戦という以外、評価が思いつきませぬ。

ちなみに「暁の珊瑚海」によると、この決定を強く主張したのは、
五航戦の先任参謀、山岡中佐だそうです。
最終的に原司令官がこれに参考する形で攻撃が決まったと書かれてます。

ただし、この時、航空参謀だった三野少佐は、この決定に基本的には反対で、
一度、瑞鶴に居た航空隊の指揮官たちに相談したようです。
二次攻撃をどうするか、と聞かれた指揮官たちは敵攻撃に賛成した、とされますが、
無理だからできません、とは言えない空気もあった気がします。

ちなみに、この辺り、例のゼロ戦エース、岩本徹三さんの手記を見ると、
薄暮の時間帯になってから、わずか300q(160海里)前後の
距離に敵空母発見の報告があったとされます。
この結果、既に翌日の攻撃準備に入っていた攻撃隊から
夜間着艦の経験者だけを選び出撃させた、との事。

この記述の通りだとすると、
五航戦の司令部は敵までの距離を短めに誤魔化して搭乗員に伝え、
(が、実はそっちの方が事実に近かったのだが)
その出撃を決行させた、という可能性すら出てきますが…。
この連中なら、やりかねない気はするなあ。
ただし、岩本さんの手記も、細かい部分が微妙に怪しいので、
この辺りは判断が難しいのですがね…

とりあえず、先の“今回はもうダメよ”というあきらめの報告から
わずか15分後、15:15に五航戦は索敵機を送り出すことになります。
機種は今回も97式艦攻で、220度から290度の線に向け、瑞鶴から4機が飛び立ちます。
(戦史叢書では翔鶴からも4機、計8機出たとされるが、
翔鶴飛行機隊戦闘行動調書に索敵機発進の記録は無い)

ここら辺りを地図で確認すると、以下の通り。
青い点線が索敵範囲です。



この索敵機の発進は、時間的に見ても、
わずか200海里の索敵距離から見ても(通常より50海里短い)、
さらに4機しか出てない、という所から見ても、
おそらく今後の航路の安全確認のため、最初から計画されていたものだと思われます。
攻撃隊のための索敵、という任務は後から加えられたものじゃないでしょうか。

200海里という距離は、日没(18:15)までに索敵機が帰ってこれる距離、
という事で決められたのだと思うのですが、
上の地図で見るとわかるように、わずか数海里の差でTF17に届かない、
よってこれを発見できなかった、という極めて運の悪い結果になっています。
(誤差を考えるとギリギリ届いてながら、発見に失敗してた可能性もなくはないが…)

さて、とりあえず、MO機動部隊の戦闘詳報によれば、
この索敵機が発進後、1時間ほど待った16:15、
薄暮攻撃の部隊を出すことになったとされます。

当然、この段階で索敵機からは何ら報告は無く、
やはり敵ははるか西に居る可能性が高い、と判断されたようです。
(事実は既に見てるように違うのだが)

さて、そんな感じで、実際は至近距離にいる敵機動部隊、TF17に
全く気が付かずに出撃する事になった
薄暮の攻撃隊には、当然、過酷な運命と、あまり他に例を見ない
大混乱が待ち構えていました。

といった感じで、今回はここまで。
次回、その攻撃の錯綜ぶりを確認しましょう。


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