■5月7日の戦い 第一ラウンド終了時

といった感じで5月7日、8日と二日間に渡って戦われた
人類初の空母決戦を見てきました。
初日の第1ラウンドは、両者とも錯誤と混乱の中で、
別の艦隊を空母機動部隊と勘違いし攻撃、これを撃沈して終わったわけです。

この段階では小型とはいえ空母1隻を沈めてしまった
アメリカが優位の気がしますが、実際はこの戦果によって、
ようやく正規空母2対2の互角の勝負に持ち込めたにすぎませぬ。
ちなみに海戦が終わるまで、アメリカ側は空母の他、
軽巡一隻を沈めてる、と信じてました。
(これも数か月後、日本側の押収書類を確認して初めて間違いに気が付いた)

ついでに、この段階まで日本側は1万トンを超える大型艦の損失はまだ無く、
太平洋戦争における最初の大型艦の損失が祥鳳となりました。
まあ、この後はもう、すごい勢いで次々に沈んで行くんですが(涙)…

さて、両者ともその攻撃の間違いにすぐ気が付きましたから、
攻撃終了後は、ホンモノの敵空母機動部隊への攻撃準備に移ります。
そして7日夕方の第2ラウンドの戦いにつながって行くのです。

ただしこの段階で日本側はすでに相手の位置をほぼ正確に掴んでいたのに、
アメリカ側はまだ日本の主力打撃力、MO機動部隊の位置を発見できてません。
この時期のアメリカの暗号解読はまだ完全ではなく、
日本側の戦力を完全に把握していながら、
五航戦が本隊とは別行動を取ってるとは全くわかってませんでした。
よってこの日の夕方、両軍の空母機動部隊が思わぬ形で接触するまで、
まさか東に日本の攻撃力の主力がある、とは思ってなかったのです。

さらにこの日の朝の攻撃を受けたUSSネオショーとUSSシムスは
敵が艦載機である、という重要な情報を発信しませんでした。
このためTF17司令官フレッチャーは、自分たちの東側に敵機動部隊が居る、
と確信することができなかったのです。

実際、その直後にジョマード水道出口に向かっていたTG17.3は
明らかに地上基地から飛んできた一式陸攻の攻撃を受けており、
航空攻撃を受けたらからと言って、相手は空母とは限りません。
(当時の空母では双発の大型機は通常運用できないから
陸攻が地上基地から来たのは明らかだった)

このため、残りの日本空母、
五航戦(MO機動部隊という名前は知らなかったはず)も北西方向に居る、
そしてデボイネ横のジョマード水道を抜けて
ポートモレスビー攻略に向かうとフレッチャーは判断してしまいました。

そして祥鳳攻撃から帰ってきたTF17の攻撃隊はまだ再装備中であり、
この隙に敵から一方的に叩かれることを恐れたフレッチャーは
一度南に向かって距離を取り、夜間に一気に西に向かおう、考えます。
この結果、それとは知らずにMO機動部隊の居る南に向けて
針路を取ってしまう事になるのです。

よって、この段階で、日本側は情報戦で圧倒的優位にありました。
ところが、この優位があまり生かされないまま、
こっちもまたグダグダの大乱戦になって行く、
というあたりが7日の戦い第2ラウンドの特徴となります。
この展開、もう慣れましたね(笑)。

とりあえず、この日の午後、日本のMO機動部隊による
索敵機発進までの戦場全体の動きを確認すると以下の地図になります。
この後で詳しく見てゆきますから、今はざっと眺めてもらえればオッケーです。

また、この日の朝にTF17から離脱してジョマード水道出口に向かっていた
巡洋艦と駆逐艦からなるTG17.3は、昼頃に陸攻の攻撃を受けた後、
オーストラリアに向けて逃げ出してしまったため、この段階で
記事の対象から外してます。



ラバウル近辺まで含んでいた、これまでの地図よりも
より戦闘海域を絞り込んだものを、今回から使用します。
ちなみにUSSネオショーとUSSシムスはさらに南側で沈んでるので、
この地図の範囲外となり、これは省略しました。

といっても、このままでは何が何だかよくわからん、という感じですから、
個別に見てゆく必要があるでしょう。

その前に、おおまかな海戦の流れを再度確認しておきます。
まず祥鳳を沈められたMO主隊、そしてMO作戦の主役ポートモレスビー攻略部隊は
デボイネ周辺、アメリカの第17機動部隊(TF17)から見て北西の海域に居ました。

対して主力打撃力であるMO機動部隊はその東側に居る、という構図ですね。
東西に分かれた日本の部隊間の距離は約600km近くあり、
その中間に挟まれる形でアメリカのTF17が居る事になります。

でもって今回、日本側の各部隊の動きは戦史叢書の付図を参考にすればいいや、
と思ってたんですが、その図にあるMO主隊とポートモレスビー攻略部隊の
動きがかなり適当で参考にならんと気が付いてしまいました…。
おのれ、またこのパターンか戦史叢書、と思ってたんですが、
そこでさらにアメリカ側の航路図を見たら、完全に絶望しました(涙)。
だって、これですぜ。



目印になる島もなけりゃ東経、南緯の線もない。
かろうじて11:11と13:20の時点における緯度、経度が書かれてるだけ。
(何度も書いてるがアメリカの作戦時間なので現地時間+30分なのに注意)

まあ他に無いんじゃ仕方ない、
これを緯度経度であわせ、地図に重ねてトレースするか、と思ったんですが、
ちょっと待て、これおかしいぞ、と気が付く。
南緯(上の数字。両者12度5分以下)がほぼ同じなのに、こんなに傾いてるのも変なら、
両者の時間は2時間10分しか経過してないのに、経度で1度以上移動してる。

緯度経度がわかるなら、地球中心点と半径を使った
三角関数の計算で両者の距離は出るので
計算してみると、その距離約70海里、すなわち約130q。
(この計算も地球の半径の数字によって数qの誤差が出る。
とりあえず地球半径(R)=6373qの数字で計算した)

この距離を2時間で移動したというなら、
単純計算で35ノットで航行していた事になる。
かなり無茶な数字で、そもそもこれではあっという間に燃料が無くなるだろう。
さらに資料を見ると、この日はほぼ23ノット前後で航海していた可能性が高いのだ。

その上、そもそも直線で移動してるわけではなく、
さらに13:20の地点は西から折り返して来た地点となっている。
…つまりより長距離を移動している。
となると時速40ノット(74km/h)とかで航海してる事になり、
なんぼアメリカ空母でも、ありえませんね、この数字(涙)。

とはいえ、他に資料は無く、仕方ないのでUSSヨークタウンの行動報告書で
確認できる複数の地点も合わせて確認したところ、
南北方向ではそれほど大きくずれてない、と思われるのでそのまま採用、
東西方向を25ノット前後で移動できる距離に調整し地図に書き込んでます。
というか、海戦からすでに約75年、誰もこの異常に気が付かなかったのか?
それとも私が知らない、より正確な航跡図でもあるんでしょうかね…。

とりあえず予想外にエライ目会いましたが、恐らく人類史上初めて、
比較的正確な航跡図で珊瑚海における
日米の戦いを読み取れるようにはなりました。
そして誰も褒めてくれないでしょうから、少しだけ自分で自慢しておきました(笑)。



ついでに、こんな図と距離の数字ばかり見てもあまり実感がわかないと思うので、
同寸法の日本地図を重ねてみました。
600qも離れた部隊が繰り広げる海戦というのは、こういった広さになるわけです。

戦域の最大の幅で見ると、ほぼ仙台から山口辺りまでの距離があり、
主要な戦闘地域だけを見ても福島〜岡山程度の距離があります。

7日朝のTF17から祥鳳への攻撃は、ほぼ浜松〜姫路前後の距離ですから、
空母機動決戦というのが、いかに遠距離で戦われるのか、
というのがなんとなくわかるでしょうか。

人類がオギャーと生まれて60万3524年にして、こんな壮大な戦争をするようになった、
というのは、創造神の皆様におかれましては、きっと感慨深いものがあったでしょう。
でもって、こんな戦争は人類60万5632年の歴史の中で、
たったの2年半の間に、世界中で日本とアメリカだけが体験した不思議な戦争でした。

さらに言うなら、1944年(昭和19年)の空母決戦はもはや戦闘ではなく、
事実上、アメリカによる一方的な掃討に近いものですから、
実質的には1942年の5月からわずか半年の間だけ行われた極めて貴重な戦闘です。
その割には開戦から75年近く、日米ともに誰一人、まともに研究した形跡がなく、
よって私がこんな記事を書いてるわけです。
(そもそも日本語の壁で戦後のアメリカ側の理解でもかなり適当な部分がある。
日本側の研究は…ねえ(笑)…)

ちなみにこの地図はメルカトル図法のままですが、
登場するのは南緯14度くらいまでなので、距離の誤差は無視して大丈夫。


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