■日本側の戦いの終焉

さて、そんな感じで、1942年5月7日、8日の二日間(現地時間)に渡って展開された
珊瑚海海戦はようやく終了しました。

再度確認して置くと、この海戦は日本海軍が主導した作戦、
ニューギニア島の南岸にあるポートモレスビーを攻略する
MO作戦の中で戦われたものです。

ポートモレスビーへの上陸部隊を満載した船団を護衛するため、
五航戦の瑞鶴、翔鶴を中心としたMO機動部隊が派遣され、
その上陸部隊を叩くために出動して来たアメリカの空母機動部隊、
TF17と激突したのが8日の海戦だったわけです。

すなわち日本側の空母派遣の理由はポートモレスビー攻略援護のためであり、
対してアメリカ側空母機動部隊の目的は、その阻止でした。
この点をキチンと頭に入れた上で、この戦いの終焉を見て行きましょう。

ここでまた例の地図を使って、戦いが終わった後の状況を確認しますぜ。
ついでに、アメリカのTF17が攻撃隊発艦後、まともに北上してないのを
ここで再度、見て置いてください。
風向きの関係で離着艦時には南東に向かう必要があったとはいえ、
それ以外の大半の時間は北上に使えたはずなのに…。

朝からひたすら敵に向かって南下、攻撃隊の出撃、帰還を容易しにした
日本側のMO機動部隊の行動に対し、あまりに臆病な印象がありますね。



海戦後のアメリカ側の動きから再度確認して置きます。
とりあえずTF17の指揮権を自分へと取り返したフレッチャーが
航空部隊の損失の大きさから14:00ごろの段階で第二次攻撃を諦め
14:18ごろには南に変針、戦場からの離脱を計ったことは既に述べました。

その後、USSレキシントンの沈没という大事件が起こるわけですが、
生き残った艦隊は南東方向に向け、そのまま戦域を離脱してしまいます。
TF17に関してはこれでおしまい、と言っていいでしょう。

対していろいろややこしかったのがMO機動部隊でした。

まず、爆弾3発の命中を受けて中破した翔鶴が、
USSレキシントン隊の空襲終了直後、12:00頃に艦隊を離脱、
応急処置のため、トラック泊地に向け北上を開始します。

このため、まだ帰還途中だった翔鶴の攻撃隊に対しては、
瑞鶴に着艦せよ、という命令を12:30ごろに打電してます。
ちなみに翔鶴が北上するに当たっては、
この朝合流した重巡 古鷹、衣笠(第6戦隊第2小隊)
そして駆逐艦 潮、夕暮が護衛で付きました。

古鷹、衣笠はその後、北方に居た第6戦隊に復帰、
潮と夕暮れは、最終的に翔鶴が横須賀に回航されるまで
護衛が命じられたようです。
(ただし後に翔鶴の修理場所は呉に変更となるが)

対して無傷だった瑞鶴と残りのMO機動部隊の主力は
風上方向で、さらに攻撃隊にも接近できる
南東に向けて航行を続け、攻撃隊の収容に向かいます。
その後、13:10〜14:30にかけ、帰還して来た攻撃隊を瑞鶴に収容しました。
やけに時間が掛かっているのは、攻撃隊はバラバラに帰還したため、
一部の機体の到着が遅れたからのようです。

この時、生還した瑞鶴の攻撃隊は

艦戦(ゼロ戦) 8機、 艦爆(99式艦爆) 12機  艦攻(97式艦攻) 4機

計24機でした。
ゼロ戦が出撃時の9機から1機減ってるのは不時着水した機体が1機あったからで、
空戦による撃墜は無かったものの、損失は1機出てるわけです。
同時に翔鶴隊の収容もやってるのですが、こちらの生還機は

艦戦(ゼロ戦) 9機 艦爆(99式艦爆) 7機  艦攻(97式艦攻) 6機

と計22機となっています。
ちなみに翔鶴飛行機隊の記録によると12機が生還してるはずなのに、
収容されたのが7機のみ、というのは、
帰還先の母艦変更の連絡が上手く行っていなかったためです。
このため瑞鶴に向かわず、北上を開始していた翔鶴を追いかけてしまった
艦爆が複数あったのでした。

これらは当然、はるか北まで飛んだ上に、翔鶴は着艦不能ですから、
全て燃料切れで不時着水し、乗員は周囲の護衛艦に救助されてます。
その一部は付近の島に不時着したともされますが、資料では確認できず。
さらに、翔鶴の上空護衛に残ってたゼロ戦の内、
最後まで残っていたと見られる3機も、不時着水したようですが、
乗員は全員救助されたとされてます。

ちなみに瑞鶴に着艦した機体の内でも、損傷が大きく、
修復不能と判断されたものは全て海中に投棄されてます。
これは翔鶴の機体も収容する必要が生じた結果、
その機体の収容空間確保のためらしいです。
が、この時、艦上では収容機数が多くて軽いパニックになっていたようで、
どうも必要以上になんでもかんでも捨てすぎたかも、
という目撃証言も残ってます…。

さて、この攻撃隊収容段階までに、MO機動部隊司令部は、
あらかじめ無電の報告によって攻撃隊の損失の大きさを知ってました。
さらに艦隊の駆逐艦、巡洋艦残燃料が厳しく、燃料補給が必要と考えていた事、
攻撃隊の報告によれば、敵空母は二隻とも撃沈したらしい事などから
第二次攻撃は無理だし、不要である、という判断をしていました。

実際、雷撃隊は事実上壊滅、艦攻部隊も翔鶴に一部が向かって不時着水した結果、
かなり数が減ってしまってましたから、この判断は妥当でしょう。
ここまでは、問題なし、と見ていいです。

このため、攻撃隊収容が終わった14:30頃、
はるか北方、ラバウル停泊中の旗艦 鹿島に居た
南洋部隊(第四艦隊)司令部に対し、
本日の第二次攻撃は無理だ、と打診します。
とりあえず、ここまでも問題なし。

が、この後、MO機動部隊は司令部からの返信を待たず、
15:00ごろに独断で戦域からの離脱を決定、
艦隊の針路を変針して、北上を開始してしまいます。

南洋部隊司令官からの「攻撃を止め北上せよ」という指令を
MO機動部隊司令部が受け取ったのは16:00されてますから、
実際の命令受領より1時間も早い段階で、
独断で第二次攻撃をあきらめ、戦場から勝手に離脱してしまったのです。

さらに言うなら、この電報は15:45に南洋部隊から発信されてますので、
わずか15分でMO機動部隊司令部にまで届いていた事になります。
7日朝の南洋部隊司令部からの都合の悪い(笑)電文は
到達まで45分もかかっていた、というのにねえ…。

ちなみに、後に五航戦の原司令官は、この時の状況を
「北上の命令があったの引き上げた」と恥ずかしげもなく述べてます。
この“北上命令”が南洋部隊司令官のものを指すなら、上で書いたように大嘘です。
もし現場のMO機動部隊の司令官によるものを指すのだとしても、
航空作戦に関しては五航戦の原司令官に判断は委ねられていたはずで、
よくもまあイケシャアシャアとおっしゃいますな、という感じです。
ダメでしょう、この人…。

…なんというか、もう慣れたとはいえ(涙)
この作戦中におけるMO機動部隊司令部が異常なのか、
当時の日本海軍ではこれが普通だったのか私にはわかりませんが、
よくこれで戦争やってたな、という指揮系統ですね、ホントに。

とりあえずこの日本側の戦場離脱を以て、珊瑚海海戦は
事実上終了した、と考えていいでしょう。

ちなみに8日の戦闘でラバウルの一式陸攻が全く登場しなかったのは、
TF17の位置がラバウルから1000q以上あって航続距離外だったこと、
さらにこの日の朝からラバウルは激しい豪雨に見舞われており、
朝の一時期は攻撃隊の発進が出来なくなっていた事によります。


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