■第八章 F-16への道


■ミグ25の登場

F-X計画にボイドが乱入してから半年以上過ぎた1967年7月9日(ソ連時間)、意外な衝撃が北の国からやって来ます。アメリカの独立記念日からわずか数日後のこの日、ソ連は開発中の新型戦闘機ミグ23とミグ25を国内の航空ショーで初めて公開したのです。ミグ25はすでに1965年ごろから西側にソ連の新型戦闘機として知られていた機体ですが、ついにそれが姿を表した事になります(ただし実はまだ試作段階だった。1964年3月に初飛行したものの量産、部隊配備は1970年から)。



ソ連の新型機として衝撃を与えたミグ25。西側呼称はフォックスバット(FOXBAT)、キツネコウモリであり、正直、意味不明です(Flying foxというコウモリはインドに居るが、FOXBATなる生物は実在しない)。写真はインド空軍が使用していた写真偵察型のMig-25R。派生型と見られがちな偵察用のR型ですが、実はむしろこっちが主役、という機体だったりします。この点はまた後で。



あまり知られてませんが、ミグ25と同時デビューだった、ソ連の地味なアレことミグ23。西側呼称はフロッガー(Flogger)。ちなみにカエルちゃんではなく鞭打つ人、の意味です(カエルならRでFrogger)。

本来はむしろこっちが主役で、当時の主力戦闘機ミグ21を置き換えるべく登場した機体でした。が、F-111の悪い影響を受けて(笑)重くてかさばる可変翼機とした結果、イマイチな戦闘機になってしまい、以後は対地攻撃機などに転用されて行き、ミグ21の時代はまだしばらく続く事になります。

ちなみに、ボイドを始めとする可変翼反対派は「F-111の唯一の功績は、ソ連にミグ23を造らせたこと」とまで言ってました。が、実際はそこまでヒドイ機体では無く、アメリカ空軍が実際に入手して試験したところ、意外に高性能だったことが判明します。ただしミグ21に比べると運動性、整備性で大きく劣り、さらに価格も高価になってしまったのが致命傷でした。

ちなみにこの時期にボイドは一度ペンタゴンを離れ、太平洋およびヨーロッパ方面の空軍司令部を訪問、F-Xの性能要求について聞き取りを行っていました。その最中に、ソ連が驚異の新型戦闘機を登場させた、という事になります。
ついでにこの時のヨーロッパ訪問で、我が戦闘機部隊は無事故である、と誇る現地の指揮官(大将級だったとされる)に対し「死者が出るくらいの訓練をやるべきです」と進言、不興を買ってます…

この世界訪問はボイドがまだ少佐であり、その階級で軍に留まれる限界年齢に達しつつあることから、外部出張中という形で退役を引き延ばして、その間に中佐への昇進を計る、という意味もあったようです。結局、その後にようやく中佐への昇進が認められるのですが、あちこちで敵を造りまくっていたボイドが中佐になるのは困難を極めたようで(笑)、ミグ25の脅威に驚いた空軍が彼の存在に重要性を認識したから、という面があった可能性もあります。

そしてミグ25は公開直後に高度3万メートル(厳密には29977m)、時速2900qを達成したという情報が入って来ます(速度の達成高度が不明だが高度1万メートル前後なら約マッハ2.7となる)。これによって、ソ連がアメリカの戦闘機では到達できない高高度をマッハ3近くで飛ぶ戦闘機を手に入れた、と判断されたのです。

これはソ連の機体開発能力を甘く見ていたアメリカには衝撃でした。
当時のアメリカではミグ25に匹敵する高度と速度を持つSR-71ブラックバード偵察機がようやく実用化された段階で(1964年12月初飛行 1966年部隊配備開始)誰もこの機体には追いつけない、と考えられていたのです。なのでミグ25の登場は極めて衝撃的であり、CIAはソ連内陸部へのSR-71に飛行を一時中止したと言われています。

ちなみにアメリカ空軍にもA-12(SR-71の原型)を改造したYF-12というマッハ3級試作戦闘機があったものの、極めて特殊で扱いにくい機体となった上に高価でもあり、最終的に開発は中止になってました(正式な計画キャンセルはミグ25の公開から半年後の1968年1月)。よって、マッハ3級の高高度戦闘機、という段階でアメリカにとっては驚きだったのです。



ミグ25とほぼ同世代機であるSR-71(初飛行は9カ月遅いが量産と部隊配備は4年近く早い)。いろいろあって(笑)運用はCIAの管轄でしたが、その開発と運用には空軍も深く関わっていましたから、マッハ3で高度3万メートルを飛行というのがどれほど困難かよく理解していました。よって、ソ連がそこまでの技術を持っていたのか、と驚愕するのです。

そもそもマッハ3近い高速性の確保には衝撃波背後熱の高熱に耐える軽量金属、通常は精製や加工が極めて困難なチタンを使う技術が必要と考えられてました。そしてロッキード社はA-12とその後のSR-71の開発でこの点において極めて困難な状況に陥いり、最終的にチタンの製造管理にまで自分で乗り出すはめになっていました。
同時に高度3万メートルを飛び、マッハ3近くを出せる戦闘機用ジェットエンジンの存在も驚きでした。アメリカのA-12、SR-71に積まれていたプラット&ホイットニーのJ-58は、あまりに特殊な構造でとても普通の戦闘機に搭載できるようなものでは無かったのです。よってアメリカ軍はソ連が10年分近い技術的な大ジャンプをミグ25で達成したのか、と驚いたのでした。まあ、この点は後にそうでは無かったことが判明、別の意味でアメリカ軍を驚かすのですが。

そしてその衝撃の影響がF-X計画にも及んできます。ソ連がマッハ3ならウチもマッハ3だぜ、という大変わかりやすい発想をする将軍がアメリカ空軍にも居て、この数字が新たに最大速度の要求として求められたのです。
が、ボイドはこの点、極めて冷静でした。マッハ1.5を越える超音速はアフターバーナーのパワーでごり押しして達成される速度であり、すなわちメチャクチャな燃料消費と、そこから来る航続距離の低下を招きます。当然、搭載燃料も増えますから、機体重量も増えます。そんな条件で造られた戦闘機がまともな機動能力、そして戦闘行動半径(航続距離)を持つわけがない、と彼は判断したのです。

これは後に完全に正しかったことが判明しますが、この段階ではアメリカ空軍も軽いパニックになっており、大論争となりました。最終的にはボイドも妥協し、マッハ2.5を達成という条件で折り合う事になります。ちなみにこれもかなり無理のある速度で、空自のF-15パイロットだった人によれば普通は絶対そんな速度出さないし、そもそもエンジンの限界と膨大な燃料消費から出せても一瞬だ、という事らしいです。つまり実用性は全くありません。F-15といえど通常はマッハ2以下で飛んでると思うべきでしょう。

■その後のミグ25

ちなみに、ミグ25が実戦配備されて間もなく、ソ連はこれを西側にひけらかすような示唆行為に出ました。1971年、エジプトに偵察型のミグ25を送り込み、エジプトと対立していたイスラエルに対する写真偵察と電波偵察(ミグ25Rは電波偵察能力も持つ)任務に投入したのです。

これは1970年に配備が開始されたミグ25はトラブル続きで、このため実戦環境で運用して改善しようという提案が出された結果、とされます。そのために選ばれたのがソ連寄りの政権であり、イスラエルと緊張関係にあったエジプトでした。派遣されたのは全4機で、純粋な偵察機型のR型と、戦闘偵察型であるRB型が2機ずつでした。本来はまだ実用性の低かったRBを持って行ったのは、当時のエジプト空軍の防空能力の低さから、万が一、イスラエルのファントムIIが飛来した場合の対策だったようです。と言っても、後で見るようにミグ25は事実上空中戦はできないので、気休めにしかならないのですが。そして当然、ソ連の空飛ぶ最高機密ですから、その運用は全てソ連軍が行ってます。

空輸されたミグ25は1971年の4月からエジプト領内でその飛行試験を開始、10月になるとイスラエルに対する初偵察飛行に2機を出撃させました。この時はイスラエルの海岸線から17マイル、約27qまで接近して飛行、これを受けてイスラエル側もF-4ファントムIIを出撃させたのですが、接触する事すらできずに逃げられてしまいます。
この後、ミグ25はその偵察活動を本格化させ、そして一度もイスラエル側のファントムIIに補足される事なく逃げ切ってしまっています。これで頭に血が上ったイスラエルはミグ25の基地を突き止め、離着陸時を狙ってファントムIIによる強襲を企てるのですが、エジプト空軍が基地周辺に護衛用のミグ21を飛ばしたり、ミグ25と同時にオトリのミグ21を離陸させたりという対策を取ったため、これまた失敗に終わってしまいました。

その後約9カ月、1972年の初夏ごろまで月2回のペースでこの偵察飛行は繰り返されますが、その間にニクソン大統領とブレジネフの会談が行われ、さらにエジプトのサダト大統領がソ連はどうも最新戦闘機をテストしたいだけだ、と気が付いてミグ25の活動中止を命じたため、1972年7月、ソ連のミグ25テストチームはエジプトから去る事になります。

ちなみに翌年1973年に発生したヨムキプール戦争、いわゆる第四次中東戦争では、この時の偵察データが活用されたとされますが、詳細は不明。そして、この戦争が始まると再度ミグ25の偵察型がエジプトに派遣されています。どうもこの二回目の派遣の時に、アメリカ軍は海軍のレーダー艦を派遣、詳細なデータを取ったらしいのですが、そこで彼らは衝撃的な事実を目撃する事になります。ミグ25は70000フィート(約21340m)、という高高度を飛行、そこでアフターバーナーを全開にしてマッハ3.2の速度で飛び去るのがレーダーによって確認されたのです。これにより、やはりミグ25は高高度、高速度の恐ろしい戦闘機だとアメリカは認識する事になります。
(以上はソ連機の研究家、Yefim GordonのOKB Mikoyan: A History of the Design Bureau and Its Aircraftの記述による)

ただしアメリカ軍は同時に別の情報も得ていました。おそらく世界一勤勉な情報機関、イスラエルのモサドがもたらした情報だと思われますが、マッハ3.2で飛行してエジプトに帰還したミグ25のエンジンが破損していた、というのです。ただし、これが不運な事故だったのか、そもそもミグ25のエンジンがそれほど信頼性が無いからなのか、判断がつきませんでした。

ところが、意外な所からその回答がやって来ます。ソ連のエリートパイロット、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉がミグ25に乗って、1976年9月、日本の函館空港に亡命してきたのです。後にこのミグ25はソ連に返還されますが、それまでに徹底的に調べ上げられ、さらにベレンコ中尉の証言からアメリカはミグ25に関して驚くべき情報を得ます。

ジョン・バロン(John Brron)がベレンコとアメリカ側の関係者にインタビューしてまとめたMIG PILOT(ミグ-25 ソ連脱出というタイトルで邦訳されている)によると、この時の調査で、ミグ25はそもそもアメリカが考えていたような機体では無かったのが明らかになります。ミグ25は当時のアメリカに匹敵する最新技術で造られた恐るべき戦闘機では無く、高速で素早く高高度に到達して遠距離からミサイル攻撃する事だけを目的に、それ以外の性能は全て無視されて造られた特殊な機体だったのです。すなわちソ連の全天候型迎撃機、F-102やF-106のような機体だった、という事です。

■函館の事実

ベレンコのミグ25の調査が始まると、明らかに機体全体の強度が不足してる事が判明します。この辺りからまともな空戦はそもそもできないのでは、という疑問が生じるのですが、これはベレンコに対する聴聞でその通りであることが判明、アメリカ側を驚かせます。そもそもミグ25は空中戦をやって航空優勢を確保する機体、F-15のような戦闘機では無かったのです。そしてベレンコの証言により、以下の事実が次々と明らかになりました。

●ミグ25は燃料満載状態だと2.2Gを超える旋回の加速度に耐えられない。これは主翼内の燃料タンクの構造が貧弱で破裂してしまうため。さらに、そもそも主翼構造が弱いため主翼内燃料タンクの燃料を使い切った後でも5G超える旋回は危険で、これを行う事はできない。近代戦闘機が最大9G前後までかけて旋回、格闘戦を行う事を考えると事実上まともな空中戦は不可能という事を意味する。つまり戦闘機としては全く使い物にならない。

●最高速度はマッハ2.5までで、それ以上での飛行は禁止されていた(つまりF-15と同速)。それ以上の速度、特にマッハ.2.8を超えるとエンジンの内部が溶解、破損する可能性があり極めて危険な状況になる。つまり先に見たエジプトに進出していたミグ25のエンジン破損は不運な事故では無く、ミグ25の性能限界からくる当然の結果だった。

●計算上の最大航続距離は1000q前後だが、燃料を食う戦闘飛行時の行動半径は300q(全600q)に過ぎない。実際、800q前後の飛行で函館に飛んできたベレンコの機体はほぼ燃料が空だった(ただし偵察型は武装無しで増槽を積むのでもう少し長い距離を飛べるはず)。ちなみにアメリカ側は戦闘行動でも2000q(行動半径だと1000q)は飛べると考えていた。

●実際の運用限界高度はミサイル×2発で24000m、ミサイル×4発だと21000m。よって通常任務で高度26000m前後を飛ぶSR-71には届かなかった。ミサイルは下から撃ちあげれば到達できるが速度が落ちるため、マッハ3近くで飛ぶSR-71に追いつけるミサイルは無かった。すなわち実はSR-71の迎撃は事実上不可能だった。

●電子装備は真空管を使った旧式なものだったが強力な出力を持ち、あらゆる電波妨害を打ち消してしまった。ただしその走査範囲は極めて狭くほぼ機体の真正面しか見えない。このためミサイルのロックオン以外にはほぼ使えない。なので索敵、そして接敵には地上レーダーからの補助が必須となる。また、地上高度500m以下だと地上からの反射ノイズに埋もれて目標を識別する事ができない。

ちなみにベレンコは下方走査能力、高度500m以下の探知能力が強化された新型レーダーを積んだ新しい戦闘機(ミグ31)の情報ももたらしており、これが後にB-1戦略爆撃機無用論の決定打の一つになった。もはやB-1の主要戦術であるレーダーに発見されない低空高速進入は不可能になる可能性が高くなったからだ(ちなみにミグ31の初飛行はベレンコの亡命とほぼ同時の1976年9月だったから、まさに最新情報だった)。

これらの調査結果から、ミグ25はアメリカの新型戦闘機と戦うための戦闘機では無く、開発中止になったアメリカの超音速爆撃機のXB-70、そしてSR-71高速偵察機を迎撃するための直線番長である事が判明します。すなわち強力なアフターバーナー付きエンジンで一気に高高度まで上昇、高速で飛行して迎撃するための戦闘機であり、間違ってもF-15やF-16と格闘戦を行うような機体では無かったのです。そもそも通常で2.2G、最大でも5G以上の機動ができないのでは、F-4ファントムII相手でも勝ち目がありません。

ちなみに衝撃波背後熱の高温に耐えるため、衝撃波が発生する部分は主に重いステンレス製で(ただしベレンコ機には錆が出ていた、という証言があるのでただの鉄鋼の可能性もある)、軽量なチタンはごく一部使われていたに過ぎませんでした。この点もアメリカにとって予想外で、ソ連が突然チタン加工技術を手に入れたわけでは無かったのです。

さらに先に述べたように、電子装置には真空管を使っていたため、あまりの古臭い技術に日米の調査員は驚くのですが、逆にそんな古臭い技術だけで、高度24000mをマッハ2.5で飛べる機体をソ連が造ってしまった事にアメリカ側は驚きます。F-15やF-16の敵では無いが、見くびるわけにはゆかぬ、という部分もあったのです。
重い鉄(ステンレス)を多く使い、トランジスタでは無くガラスの真空管を使用している以上、その重量もかなりのもになってしまい、もはや戦闘機と呼んでいいのかも疑問でしたし、実際、ソ連やインドなどでは戦闘機としてよりもSR-71のような高速偵察機として活躍する事になるのですが、それでもソ連は頑張った、という面が大きいのも事実です。

この点については、当時のアメリカ側調査員の証言、
「ソ連の技術者は明確な性能目標を持ち、それを達成する事だけに集中し、手持ちの技術だけで、もっとも費用対効果が高い設計を行っている。彼らをアメリカに招けば原価を意識した管理、設計で我々が学ぶ点も多いはずだ」
と述べてる辺りが、この戦闘機に対する適切な評価だと思わます。全く持って恐ろしくは無いけれど、驚くべき機体ではあったのです。

といった感じで、今回はここまで。

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