■第八章 F-16への道


■F-X計画への参加


こうして1965年、アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまりつつあった当時、もう一つの泥沼になりつつあった次期主力戦闘機、F-X(後のF-15)の開発のためにボイドは国防省に呼び出され、以後、その中心メンバーとして数多くのトラブルを引き起こしながら(笑)、計画全体を主導して行く事になます。

ちなみにF-Xの“X”はファイター アンノウン(Fighter-Unknown)、数学のX(Unknown)と同じ意味で、ナンバーの無い戦闘機、ということらしいです。余談ですがF-XはFighter-Experimental、実験的な戦闘機の略称、という説明も見ますが、少なくともF-15の開発名だったF-Xにはそういった意味は無いと考えていいようです。

このF-Xの研究は、ルメイ閣下が空軍からバイバイになった1964年ごろからスタートし、1965年の段階までにはそれなりの形で、最初の要求仕様がまとめられていました。これはF-111の配備前ですから、空軍もどうもF-111はダメだと早い段階から気が付いてたわけです。ところがそのころからベトナムでのアメリカ空軍機のテイタラクが明らかになり、どうも今までの考え方で戦闘機を作ってもダメっぽいぜ、という話になってしまうのです。

これで計画は最初からやり直しになったようで、計画は早くも迷走を始めてしまいます。そしてルメイの跡を継いで空軍参謀総長の座についていたジョン・マコーナル(John McConnell)の判断により、急遽、ボイドが呼び出されることになったわけです。ちなみにマコーナル自身がボイドのブリーフィングを受けたことは無いようですが、例のクリスティがまとめたレポートでエネルギー機動性理論を知っていたのかもしれません。
このため空軍参謀総長であるマコーナルの後ろ盾でボイドはF-15の開発に臨むことになります。一介のオッサン少佐に過ぎないボイドが、計画全体に強い影響力を持てたのはこのためです。ちなみにマコーネルの在任中にA-10の開発もスタート、これにもボイドは間接的に関係してますから、この人の存在は、後の空軍を考える上でも意外に重要だったりします。

ついでながら、マコーナルという人は部下の将軍連中からの報告が適当に都合のいい話ばかりなのにウンザリし、ボイド以外にも数人の士官クラスの連中と密接に連絡を取りあって、空軍内の情報の把握に努めていたのだそうな。なかなか興味深い人物だと思います。

■スプレイの登場

でもってボイドはペンタゴンに赴任直後に計画責任者の大佐といきなり衝突、ここから出てゆけと宣告されました。さすがですね(笑)。が、マコーナルのとりなしで、すぐに開発チームに復帰を果たしてます。こうしてF-X計画の迷走はボイドという強力な人材を得た事でその迷走から立ち直って行きます。

ただし彼の保護者的な存在だった(8歳年下ですが…)クリスティーは、まだこの段階ではエグリン基地に居り、毎週ペンタゴンまで出張という形で参加してるだけで常にボイドと一緒に行動することはできませんでした。ボイドは極めて孤立した立場だったのです。ただでさえトラブルメーカーの彼にとっては厳しい環境と言えますが、この時、思わぬ形でボイドは最強の盟友と出会う事になりました。

その男の名はピアー・M・スプレイ(Pierre M Sprey)。
マクナマラ国防長官がペンタゴンに送り込んだ例のウィズ キッズ(Whiz Kids)の一人で、15歳でアイビーリーグの名門、イェール大学に入学、19歳で卒業してしまった天才児でした。以前にも説明したように、マクナマラ国防長官はペンタゴン内に、ウィズ キッズと呼ばれる民間人のチームを派遣し内部調査をやらせていました。その中で、空軍のヨーロッパ方面戦略を検討するために派遣されていたのがスプレイだったのです。

彼はまだルメイ健在の空軍で戦略爆撃が過去のモノになりつつある事、さらに空軍は航空優勢の確保と地上軍への近接支援(CAS)にもっと力を入れるべきだと言うことを早い段階から主張していました。このため、まだルメイ閣下とSACの影響力が強かった空軍上層部からは、常に目の敵にされていたようです。

このボイドとスプレイの出会いは必然のような偶然のような不思議なものでした。
例のボイドともめた開発チーム責任者の大佐が、これまたスプレイの存在にウンザリし、ウチの問題児ボイドと対決させれば両者相打ち、オレはウハウハやんけと思いついたのがきっかけだったようです。そんなステキ上司の導きによって、ある日ボイドはスプレイと対決する事になるのですが、あにはからんや、両者は速攻で意気投合してしまい、以後、空軍上層部にとって最大の悩みのタネとなる最強コンビが誕生するのでした。

さて、こうしてF-15を生み出す最強のチームが誕生し、いよいよF-X計画は本格的に始動する事になりますが、F-X計画におけるボイドの仕事の内容を確認しておきましょう。彼は少佐に過ぎませんから(途中の1967年に40歳でようやく中佐に昇進)、計画全体を取り仕切っていたわけではなく、あくまでF-Xに求められる基本的な性能要求の取りまとめと競作に参加する各メーカーとの交渉が主な仕事でした。

このためボイドがF-X計画に参加して最初に始めたのは、機体の基本ラインの決定、すなわちどれだけの大きさ(重さ)の機体で、どのような性能が必要なのか、という設定でした。逆に言えば、こんな部分ですら、まともに決まっていなかったわけです。ここに途中からスプレイも参加してアイデアを出し、さらに1000km近く遠くにあるフロリダのエグリン基地から毎週呼び出されていた、気の毒なクリスティーが機体性能のコンピュータシミュレーションを担当して行きます。つまりF-15の段階で既にアメリカ空軍はその機体開発にコンピュータシミュレーションによる性能評価を採用していたわけです。

ここでボイドは基本的にエネルギー機動性理論に則った性能要求を考え、とにかく軽量で、十分なエンジンパワーがあることを大前提としました。ただし流体力学の知識が要求される空力部分は全く素人でしたから、その部分は軍の航空力学研究所やNASA、そしてメーカーの技術者たちに任せていたようです。中でもNASAは空軍の依頼を受けて、多数の実験模型による空洞実験をして中心的な役割を果たしています。実際、後に決定されたF-15の基本的な形態はNASAの発案によります。
(NASAが提示した基本設計に合わせ、各メーカーがアレンジした機体設計をF-X競作に提出した。その中でマクダネル社の案が採用となったのが後のF-15)


■PHOTO NASA

ちなみにF-15の開発に置いて、空力的な設計以外でもNASAは大きな貢献をしてます。
写真はその一つ、1973年にNASAが行ったF-15の3/8縮尺模型による遠隔操作機空力テスト(Remotely Piloted Research Vehicle Project)。既に実機が初飛行した後ですが(1972年7月初飛行)、有人飛行では危険な失速、スピン試験には多大な時間がかかってしまうため、墜落しても人が死なない無線操縦の無人機で基本データー取得の試験を行ったもの。マクダネルが製造を担当し、写真のように12000m前後までB-52によって運ばれてから切り離され位置エネルギーによって飛行、その間に地上からの無線操作で各種実験を行いました。
こういった開発手法も含め、F-15はなるほど新世代の機体だ、という部分に満ちていたのですがその多くの側面にボイドとスプレイが絡んでいたのです。

さて、こうしてボイド、スプレイ、そしてクリスティという三人の人間により、F-X計画は本格的に稼働して行く事になりました。次回はその辺りをもう少し詳しく見て行く事になります。


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