■第十章 ステルス機とF-22

 
■ハブブルーへの道

さて、オーバーホルザーの提案後、ロッキードの第二世代ステルス技術開発は順調に進んでいます。

その一か月後の1975年5月には基本形状が決定され、すぐに10フィートサイズ(約305p 技術実験機なので実機のサイズが決まって無かったため縮尺無しで単純に10フィートの大きさで造られた)の模型が完成、9月14日には実験室内でレーダーテストが終了します。結果は従来スカンクワークス最強のステルス機と見られていた無人機D-21の1/1000しかレーダーに反応しない、という驚くべきものでした。そしてこれはコンピュータで計算した理論値とほぼ一致した数字でしたから、オーバーホルザーの考えが正しかった事も立証されたのです。


第一世代ステルスの最高峰、D-21の1000倍のステルス性、という実験結果は関係者を狂喜させます。さらに屋外で1500フィート(約457m)の距離からのレーダー測定をしたところ、全くレーダーに映らず、そのステルス性能がここでも確認されました。
余談ですが屋外のレーダーテスト施設をロッキード社は持っておらず、よって競作ライバルのマクダネル・ダグラス社の施設を借りてこの実験は行われたのです。ロッキードにしてみればマクダネル・ダグラスにその秘密を盗まれる可能性があったはずですし、マクダネル・ダグラスにすれば敵に塩を送るようなものでしたが、ごくあっさり、この実験は行われたようです。もしかすると、この段階ですでにマクダネル・ダグラス社はステルス技術を諦めてしまっていたのかもしれません。

そして10月には、本来の候補だったマクダネル・ダグラスを蹴落とし、ノースロップと並んでロッキードが最終候補に選ばれます。その後、両社に150万ドルの予算が与えられ、4カ月以内に実機大の模型製作が義務付けられたのでスカンクワークスでは全長38フィート(約11.6m)の木製模型を翌1976年3月までに作り上げています。そしてこの年の秋からノースロップの機体模型と併せ、一カ月以上のレーダー試験がニューメキシコ州にあったホワイトサンズの実験場で行われる事になります。

ちなみにステルス技術に軍があまり期待して無かった証拠として、この実験時の模型を支える支柱がまったくステルス技術を無視したものだった事が上げられます。このため盛大にレーダーを反射、模型の正確な反射量が測定できない、というマヌケな事態が生じ、最終的に当時で50万ドルもの予算をロッキード社とノースロップ社が負担、ステルス性を考慮した支柱を納品して実験が続行される事になるのです(ちなみにこの支柱もスカンクワークスのオーバーホルザーが設計した)。

さらに砂漠のど真ん中の実験場でまだ暑い10月に実験を行ったため、大気温度が上がると電磁波の逆転層ができ、レーダー反射の量をより少なくしてしまっていたのですが、軍はこれに気が付きませんでした。つまり実際より優秀な数字が出てしまっていたのです(オーバーホルザーの証言によると彼は気が付いていたが黙っていたそうな。ただし最後にはバレていたはずだ、との事)。

こうして実験は終了、設計担当のオーバーホルザーによればロッキードの機体はノースロップ社のものより10倍もステルス性は高かった、とされます。具体的には全長38フィート(約11.6m)の機体が、ゴルフボール以上の大きさで捉えられる事はなかったようで、この結果に驚いた空軍は、さっそく飛行可能な実験機の製作をロッキード社のスカンクワークスに命じる事になります。この辺りからステルス技術が大きく軍の注目を引く事になったようです。そして開発計画にはハブ ブルー(Have blue)という名称が与えら、後にこれがそのまま機体の名前にもなります。正直、意味不明な英語ですが、あえて訳すなら、青になれ、という感じでしょうか。

ちなみに空軍側の要求は14カ月以内に2機の試作機の完成でした。よって時間的にも予算的にも新規開発部分の限度があったため、ステルス性に関わらない多くの部品が既製品の寄せ集めとなりました。まずエンジンはとりあえず飛べばいい、という事で非力ながら入手が容易だったGE社のJ-85を2基搭載とし、これは空軍から供与してもらいます。

ちなみにJ-85はノースロップのF-5に搭載されていたエンジンですが、実は例の逆ステルス機クイルにも採用されていました。
よくよくレーダー関係の機体に縁のあるエンジンとも言えます。
その他にもコクピットはほぼF-16をそのまま採用、その上でフライバイワイア技術なしでは真っすぐすら飛ばない、と見られた構造でしたからこれもF-16のアナログ フライバイワイア装置を流用しました。ただし全く別の機体ですからその飛行プログラムは全面的に作り直されています。そして油圧周りのサーボ装置はF-15とF-111から使えるものを片っ端から取って来たようです。

この時、空軍からは総額で300万ドル分の部品の供与があったのですが、どうもこれ以外の資金援助はほとんど無かったようで、よくまあスカンクワークスはこんな仕事を受けたなあ、と思います。まあ、もっともその後、ステルス機で大儲けするので、十分、割に会った投資となったのですが。ついでに最初の研究を自社開発としたため、各種特許は軍の管轄では無くロッキード社の所有となっていたため、これもロッキード社の大きな収入源となりました。世の中、何が幸いするかわかったもんじゃないですね。

こうして早くも1976年7月に各部品を集めた組み立てが開始されますが、なにせ誰も造ったことが無い種類の機体ですから、その後の初飛行まで1年半近くかかり、ようやく1977年12月に成功しています。最終的に二機(HB1001 & 1002)が造られましたが、わずか二年間、1979年までに両機とも試験中に墜落して失われてしまい、現存機はありません(HB1001のパイロットは負傷し引退を余儀なくされたが死者は出てない)。


■Photo DARPA

ロッキード ハブブルー。1号機か2号機かは判らず。
後のF-117によく似た形状ながら、実験機のため小型な事、ステルス性をより重視した内側に傾いた垂直尾翼である事に注意してください。墜落までに1号機のHB1001が36回、2号機のHB1002が52回の試験飛行を行い、これによってステルス機は実用性がある、と認められる事になります。

中でも1979年、ハブブルー2号機を使って行われた対地対空ミサイル レーダーテストでは敵の地対空ミサイルにロックオンされる事なく目的地に到達できる事が可能と確認され、これがステルス攻撃機の正式採用の大きな原動力になったようです。
この実験は海兵隊の地対空ミサイル ホーク運用部隊に対して行われたもので、高度8000フィート(約2438m)の低空で進入、ミサイル部隊の展開してる地点の上空を通過する、というものでした。ちなみに実戦では80q以上の距離で捉えないと高速飛行するジェット機の撃墜は困難とされているのですが、この時は機体が部隊のすぐそばをかすめて飛んでも最後までレーダーでは捉えらえず、よって地対空ミサイルでもロックオンできない、という事が証明されたのです。
(ちなみにステルス技術を秘匿するため、海兵隊の部隊には電波妨害装置の実験と知らせてあった)

こうしてスカンクワークスの第二世代ステルスはその有用性を認められ、これが1981年に初飛行するF-117として結実する事になります。が、この段階で敗者となったノースロップもステルス技術の開発を続行しており、やがてそれは「滑らかなステルス」として第三世代ステルス技術に結実する事になります。

最後に余談ですが、なんで攻撃機なのにF-117になったか、という点については、私の知る限り空軍もロッキードも未だに正式な説明をした事がありません。機密保持のため、というのが定説ですが、そんなんで機密保持になるんだろうか、と思いますしね。ついでにアメリカ最大のFナンバーはあの空飛ぶ悲劇F-111ですからF-112からF-116までが一気に飛ばされてしまってます。この辺りも謎なんですが、資料が無い以上、謎のままとしておきましょう。

次回はそのノースロップ式ステルスを見て行きましょう。

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