■第十章 ステルス機とF-22

 
■F-117世代のステルス

さて、今回もステルス機の歴史を追いかけます。とりあえず第二世代ステルス、F-117までの流れを見て行きましょう。

前回見たブラックバードシリーズのA-12とSR-71は人類最初の実用ステルス機でした。が、この技術は以後15年近く、特に何の発展も見せないままに終わります。

 

そこからF-117に繋がる第二世代ステルス技術が生まれるきっかけは、ベトナム戦争で地対空ミサイルで散々な目に会ったアメリカ軍の経験でした。
ベトナムの空ですらあの地獄だったんだから、ソ連本土と戦争になった場合、その何重にも張り巡らされた対空ミサイル網を超えて攻撃するのは不可能じゃないか、と考えられ始めたのです。その対策として地対空ミサイルはレーダーで照準をつけるんだから、これに見つからない技術があれば撃たれないで済むのでは、という単純と言えば単純な発想から第二世代ステルスの開発はスタートしてます。ちなみにステルス技術は本来、地対空ミサイル対策なのだ、という点はちょっと覚えて置いて下さい。そもそも空対空の近距離戦で使う技術じゃなかったわけです。
そして、ここから登場するのが国防省の下で軍事科学研究を行ってる組織、国防高等研究計画局、ダーパ(DARPA)でした。

DARPA(Defense Advanced Research Projects Agency)は軍組織から独立した国防長官に直属の研究機関であり、この連載ではもはやおなじみ、1957年のスプートニクショックを受けて、アイゼンハワー大統領が設立したものです。元は単に高等研究計画局 Advanced Research Projects Agency (ARPA)という名前だったのですが、1972年に国防(Defense)の名前が追加され、現在のダーパになりました(厳密には1993年から2年間だけARPAの名に戻っていたが)。

このDARPAが、ベトナムや中東戦争の戦訓を受け、レーダー誘導ミサイルを無力化する技術、後のステルスに関する研究を1974年に開始するのです。これについて、フェアチャイルド、グラマン、ジェネラルダイナミクス、マクダネル・ダグラス、ノースロップの5社に性能要求が出されました。はい、明らかにロッキードは意識的に避けられています(笑)。
既に見たようにロッキードが世界初のステルス機を開発していたのですが、軍の現場から独立していたDARPAはブラックバードシリーズがステルス性能を持つことを知りませんでした。さらにスカンクワークスのボス、“ケリー”ジョンソンは業界では完全な嫌われ者だったので、おそらく意識的に外されたと見ていいでしょう。

CIAと太いパイプを持ち、怪しい商売をやっていた上に、ジョンソンは唯我独尊的な自惚れとプライドの高い男だったので軍からも、DARPAからも完全に嫌われていたのでした。この直前に動いていた軽量戦闘機(LWF)計画をジョンソンがかぎつけ、ボイドの元に直談判に乗り込んだ時も、エネルギー機動性理論なんて微塵も理解出来て無かったくせに上から目線で一席ぶったジョンソンは速攻でボイドの事務所から叩き出されています(この件についてはボイド本人が名前を微妙にボカシながら証言してる)。

ちなみにこの翌年、1975年初頭に彼はロッキードとスカンクワークスを去りました。これは定年(65歳)だったのも確かですが、ジョンソンではもう仕事がもらえない事による更迭、という面もあったような気がします(その後継者が二代目スカンクワークスのボスであるベン・リッチ)。

とりあえずDARPAは5社の中からマクダネル・ダグラスとノースロップの二社にステルス技術の研究開発を発注しました。ただし、あくまで研究段階の発注であり、それぞれが僅かに10万ドルずつもらっただけでした(リッチは100万ドルもらったはずだとするが怪しい)。なので正直、それほどステルス技術が重視されていたという感じでも無く、実際、この2社が選ばれたのはまともに参加表明したのはこの2社だけだったから、という面がありました(フェアチャイルドとグラマンは最初から辞退、ジェネラル・ダイナミクスは妨害電波装置の開発を提案して却下された)。ステルス技術、最初はそれほど期待されて無かったのです。

そして1975年初頭、スカンクワークスに二代目のボス、ベン・リッチが就任しました。その直後に彼はこの計画を嗅ぎつけ、自分たちが排除されいた事を知り強引にこれに割り込んで来るのです。が、すでに研究予算は分配済みだ、と言われたリッチは独断で1ドルの研究開発費で仕事を請け負い、そして最終的にステルス機開発の勝者になってしまいます(タダで請け負わなかったのは法律で政府の仕事を無償で行うのは禁じられていたから)。この辺りのスカンクワークス側の事情は、リッチの証言がかなり迷走していて判りにくいのですが、とりあえず判る範囲で追いかけて見ましょう。

寒い国から来た理論

リッチは当初、ブラックバード世代のステルス技術で勝負する気だったと思われるのですが、当時のスカンクワークスのレーダドーム部設計の責任者、オーバーホルザー(Dennis overholser)が1975年の4月になってから全く新しいステルス技術の提案をリッチに対して行い、これが第二世代ステルス技術の始まりとなります。
それが「希望無きダイヤモンド(Hopeless diamond)機計画」で、F-117に繋がる第二世代ロッキード式ステルス技術の母体になるものでした。ちなみにこの変な名称は理想のステルス性を追求した結果、機体形状が細長いダイヤモンドのようになっていたためで、有名なHopeDiamond に引っ掛けたダジャレでした。ハッキリ言ってつまらないですね(笑)。



ワシントンDCのスミソニアン自然史博物館に展示されているホープダイヤ。アメリカでは有名なブルーダイヤですが、希望という名のダイヤでは無く、所有者がホープ一族だった事にちなみます。リッチはダジャレ好きで有名な人物だったので、こういった命名になったのだと思いますが、そのユーモアのセンスのレベルがなんとなく想像できる部分ではあります。

この時、オーバーホルザーは空軍が公開していた海外文献の英訳の中から、ソ連の物理学者で数学者、モスクワ工科大学の教授だったピョートル・ヤコビリヴィチュ・ウフィンソフ(Pyotr Yakovlevich Ufimtsev/ Пётр Яковлевич Уфимцев)の論文を読み、そこから正確なレーダー波の反射量が測定できる事に気が付いたのです。

これは「鋭角に接する波動の物理法的回折(かいせつ)解法」、METHOD OF EDGE WAVES IN THE PHYSICAL THEORY OF DIFFRACTIONという題を見ただけで頭が痛くなるシロモノで実はA-12の初飛行の年、1962年に既に発表されていた論文でした(このEDGE WAVES は陸棚波の事ではなく直訳の通り鋭角に接する波動の事)。
アメリカ空軍がこれを1971年になってから翻訳し、関係者の閲覧を許していたのです。純粋に物理学の論文ですから、ソ連も軍事機密になんてしてませんし、翻訳したアメリカ空軍も無線技術者向けのの参考用と考えで紹介したものだったようです。

ちなみに、アメリカ軍の論文翻訳担当者による論文冒頭の注意書きだけを抜き出しておくと、

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不連続面を持つ物体に接触した電磁波の回折を検討した論文である。中でも不連続面の一辺の長さが、電磁波の波長より長い場合を想定している(訳注:つまり基本的に波長の短い高周波(ほぼUHF以上)が対象となる。やはりステルスは基本的に低周波に向かないのだ)。それらの数値を得るため、純粋に理論的な計算による手法だけでなく、これを作図によって求める幾何学的、物理光学的な手法、そして双方による求め方が、本論文中にて延べられている。

(純粋に技術的な説明なので中略)

本論分は回折現象に興味がある物理学者、無線技術者を対象にしているのはもちろん、電磁波を専門とする大学院生、アンテナと無線電磁波の伝播の専門家を志望する者にも向いている。

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という感じで、本来は全くステルス技術なんて関係ないと思われていたものだったのです。これをキチンと理解してステルスに応用したオーバーホルザーの勘の良さを褒めるべきなんでしょうね。

ウフィンソフ論文は機体の鋭角部、つまり面と面の接合部や主翼のフチなど線形部のレーダー波反射率が正確に計算できるようになるものでした。単純な平面部の反射率は先に見た入射角と反射角でほぼ判ってましたから、この知識が追加される事によって機体全体が反射する全てのレーダー波を正確に求められる事になります。当然、それが最も少なくなる形状も計算で求められる、という事です。

幸運だったのは、スカンクワークスがリッチ親分の時代になっていた事で、リッチはあっさりオーバーホルザーの言い分を受け入れ、そのステルス技術の研究に予算を割きます(当然、自社負担)。初代親分のジョンソンは、後に強烈にこの設計に反対してますから、この年、1975年1月の段階でリッチがスカンクワークスの親分の座を引き継いでなかったら、この話はここでオシマイになっていた可能性が高いのです。そういった意味では幸運でした。

こうして論文に基づいてレーダーの反射量を求めるコンピュータプログラムが作成される事になります。とはいえ、当時のコンピュータでは処理能力に限界があり、かなり苦労したようです。ちなみに処理速度よりも直ぐに満杯になって止まってしまうメモリの容量の方が問題になったそうな。

こうしてエコ−1と名付けられたコンピュータプログラムが5週間で書き上げられ、理想的な機体形状が計算によって求められる事になるのです。ついでにこのプログラムは、最初にこれを言い出したオーバーホルザーと、もう一人の技術者、シュローダーの二人で書き上げたのですが、シュローダーはこの段階ですでに80歳を超えた引退していた技術者でした。元々はレーダーと数学の専門家であり、この計画のため急遽、引っ張りだされたのだとか。

この段階で、オーバーホルザー率いるチームが出した答えは、後のF-117の胴体によく似た、ゆるやかなピラミッド型の機体、三角形を集めた凸型で、底が平らな立体形状でした。レーダー反射量の計算もこの段階までに終わっており、それは例の無人機D-21の1/1000以下であり、当時の戦闘機のサイズに換算した場合、レーダーに捕らえられる面積は、「無限小に近く、あえて言うならワシの目玉程度の大きさ」だとされました。まさに画期的なステルス性を持つ機体が産まれつつあった、と言えます。

ただし、これはあくまで理想体、つまりコクピットも空気取り入れ口もない、純粋に単純な立体としての場合でした。実際は、そこにさまざまな航空機に必要な要素が加わりますから、そこまでのステルス性は維持できません。それでも画期的なステルス性を持っていた事は間違いありませんでした。

ちなみに、このプログラムで計算できるのは、あくまで各面と面の接合部、そして主翼や尾翼などのフチの単体の反射量で、それらを一つ一つ重ねあわせて機体の形にし、そこから全体のレーダー波反射量を計算するのは、どうも一部はカンと手作業だったようにも見えます。



F-117がこうしたカクカク形状となったのは計算を単純化するため、もっとも簡単な鋭角による面接合を選んだからでした。接合部に丸みをつけてしまうと計算量があまりに膨大になり、当時のコンピュータでこれを処理する事は不可能だったからです。なので後にノースロップがB-2で丸みのあるステルスを登場させた時、リッチはコンピュータの計算能力の向上による、と思い込んでしまったのですが、実は違いました。そもそもノースロップのステルスは複数の面を組み合わせる、という事をせず、可能な限り面を減らした単純な立体構成で滑らかに組み上げてステルス性を確保するものだったのです。詳しくはまた次回に。



薄い構造の全翼機にしてしまえば、側面がほとんど存在しない機体となるため、複雑な面構成は要りらず、滑らかな面構成がステルス性に有効な事を、ノースロップはすでに知っていました。なのでB-2がF-117のようなカクカク設計でなくなった理由はコンピュータの発達による設計技術の向上では無く、ノースロップが持ち込んだ、ロッキードとは異なる設計思想の機体だったから、なのです。この点はリッチの流したデマが未だに鵜呑みにされてますから要注意。


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