■第二次大戦後の展開

第二次大戦後、アメリカが初めて本格的な戦闘に巻き込まれたのが1950年から始まる朝鮮戦争でした。
北朝鮮の金ちゃんの思い付きで始まった侵略戦争であり、アメリカ軍を中心とする国連軍が共産党軍を迎え撃った戦い、というのが朝鮮戦争の実態です。このため、まともな産業も軍事工場も無い(基本的にソ連からの補給に頼った)北朝鮮相手に産業中枢なんて存在しませんからそもそも戦略爆撃は成立しないのですが、それでもアメリカはB-29を送り込み、投下した爆弾の量だけなら対日戦を上回る量となっています。

これを戦略爆撃と呼べるかは微妙なのですが、このB-29による爆撃とレーダーの射撃管制を受けた北朝鮮側の対空砲の勝負では、戦略爆撃側が圧勝を収めました。B-29はほとんど被害らしい被害を受けずにこの戦争を乗り切ってしまうのです。ちなみに以下の数値は2015年になってからアメリカ国防省がまとめなおしたKorean War Air Loss Database、アメリカ空軍博物館が発行したKOREAN WAR 1950-1953などによります。

朝鮮戦争時のB-29の出撃回数(Sortie)は、のべ約21300機で対日戦における約33000機の約64%にもなりました。ちなみにほぼ全て日本の横田基地から出撃、北朝鮮まで1200qもの長距離爆撃を行っています。
そしてその戦闘損失は34機前後にすぎませんでした。よって戦闘による損失率は0.1%以下、事実上、損害は無かったと言っていいレベルでした。北朝鮮軍の対空能力は、無力だったと言っていいでしょう。

ちなみに最大の損失を与えたのはミグ15の迎撃なのですが、これも1950年の爆撃開始から1年間で16機のB-29を撃墜しただけで、ドイツの空の地獄を考えればあって無いような損失でした。
ただし護衛のF-84、後にF-86までもが振り切られてしまう事が多発したため、以後、ミグの飛べない夜間爆撃に切り替えられるのです。これをもってしてB-29はミグ15に圧倒された、とする記事も見ますが、それは言い過ぎでしょう。より安全な対策を取っただけで、そこまでの損害は受けてません。となると北朝鮮の対空砲はほとんど脅威では無かったわけで、実際、その損失はわずかに4機に過ぎませんでした。残りの14機は機械故障などによる損失で、北朝鮮の空もまた、敵よりも機体の故障の方がよほど怖い空だったのです。



■戦略目標なんて無いに等しい北朝鮮相手に本格投入されたB-29。
この時期はすでにキチガイ将軍カーチス・ルメイ率いる戦略航空軍、いわゆるSACの指揮下にありました。
機体下面が黒い機体が多いのは作戦開始1年後からは夜間爆撃に投入されたため。
ちなみにさすがのルメイ率いるSACもこの戦争に最新鋭のB-36を投入するまではやりませんでした。


ただし北朝鮮側にレーダー対空システムが存在しなかったわけではありませんでした。これを構築したソ連人と中国人のコンビにドイツ人のような緻密さを求めても無意味ですが、それなりの機材を持ち込み、防空レーダー網は建設していたと見られてます。ちなみに後のベトナム戦争ではドイツ顔負けの対空砲網が構築されるのですが、これがソ連が学習した結果なのか、ベトナム人が極めて優秀だったのか、よく判りませぬ…

が、ヨーロッパ戦線ですでにそんな事は経験済みのアメリカ軍は、その上を行くのに成功します。ECM戦に特化した装備を積んだB-29などの機材を次々と送り込み、これを無力化してしまったのです。ソ連側の早期警戒レーダーに関しては、アメリカ空軍はヨーロッパ方面で既にデータを取っていたとみられ、さらに戦闘時にしか電波を出さない、しかも近距離でないと電波の届かない射撃管制用のレーダーのデータも、この戦争で本格的に収集する事に成功します。周波数などのデータさえそろってしまえば、この時代のレーダー妨害は容易でした。

さらにアメリカはソ連のレーダーの多くが第二次大戦時にアメリカがレンドリースでソ連に供与したタイプのコピー、あるいはその発展型だと直ぐに気が付きました。これは国連軍側にとってラッキーでした。なにせアメリカが自分で作ったレーダーですから、その正確な周波数はおろか、あらゆる性能データは調べるまでもなかったのです。こうして、一方的とも言える対レーダー戦、電波妨害のECM戦が展開されて行きます。ちなみに、この時のアメリカ側の分析によると、共産軍のレーダーに、日本陸軍のタチ18号、さらにはドイツのフライアのパルスパターンがあった、という事ですが、確証は無し。とりあえず、この戦争ではアメリカ側のECM戦が一方的に勝利し、戦略爆撃に関しては圧勝におわります。ただし、爆撃の戦果そのものはまともなターゲットがない以上、ほとんど無意味でしたが…

が、それはあくまで高高度から水平爆撃をして帰るだけの戦略爆撃の話でした。それ以外の地上攻撃では話が違ってきます。こちらは大きな損失を避けられなかったのです。
アメリカ空軍のジェット戦闘機であるF-80シューティングスターは朝鮮戦争時、既に時代遅れと見られため、ミグ戦闘機との空戦には投入されず、主に地上攻撃に利用されました。つまり対空砲火とまともに勝負しながら目標に突入する任務を担当していたわけです。この機体の計143機の戦闘損失の内訳は以下のようになっています。

空戦の損失14機
対空砲火による損失113機
原因不明の未帰還機16機

実に79%、約8割が対空砲火による損失だったのです。低空侵入する地上攻撃機に対しては、北朝鮮の対空砲網も十分に機能していた、と考えていいでしょう。ただし、この辺りにどこまでレーダーが使われていたかよく判りませぬが…。
こうしてF-80は最新のジェット機でも低空攻撃では地上からの対空砲火には脆弱である、という事を世界で最初に証明してしまう事になりました。

■ベトナムの空で

朝鮮戦争の次にアメリカ空軍が巻き込まれた本格的な戦闘がベトナム戦争でした。アメリカ軍の介入は1964年からですが、当初は海軍の空母航空部隊のみの投入だったので、空軍の参戦は、翌1965年からとなります。

この戦争で爆撃の主役を務めたのは、当時の主力戦略爆撃機のB-52ではなく、本来は戦術核爆撃機として開発されたF-105でした。このため1972年になってからアメリカ最後の航空攻勢として行われたラインバッカー&ラインバッカー作戦II までB-52は北ベトナムへの戦略爆撃、いわゆる北爆に一切参加してません。

  
 
■リパブリック社のF-105サンダーチーフ。
サッドの愛称で有名な機体で、事実上、ベトナムにおけるアメリカ空軍の主力機でした。
これによる北ベトナムへの“戦略”爆撃が空軍の主な活動だったからです。

第二次大戦の時のB-17、24、29に相当するのがこの機体なのですが、
単座のジェット戦闘爆撃機による農業国家北ベトナムへの
“戦略爆撃”は従来の戦略爆撃とは、当然、全く異なる形になりました。


このF-105は超音速ジェット機でしたから、ある意味では人類初の超音速機による戦略爆撃ではありました。ただしベトナム戦争ではほとんどが低空侵入の通常速度爆撃であり超音速機の意味は全くありませんでしたが…。

そして北ベトナムがマッハ2を超えるレーダー対空誘導ミサイルS-75(NATO側呼称SA-2)を運用していた事で、それまでの空の戦いとはガラリと変わった展開になってゆきます。このミサイルから簡単に逃げる術はなく、地上からの対空兵器はドイツ戦以上に危険な存在となって行ったからです。実際、ベトナム戦争中に撃墜されたB-52の17機は全てこの地対空ミサイルによるもので、ミグによる撃墜は一機もありませんでした。この辺り、朝鮮戦争とは正反対の結果となってます。
さらにこのミサイルを中心に極めて強力な対空砲網を北ベトナム軍が構築してしまったため、アメリカ空軍は地獄を見ることになります。ベトナムの田舎の空は、かつてのドイツ以上に危険な空だったのです。この辺りは2018年の「有料増刊号」でイヤンてなくらいに説明してるので、興味のある人はお買い求めください(笑)。

ここで注意が居るのは、射撃照準レーダーが既に対空陣地の必須の道具となっている点です。
このため、アメリカ軍はミサイル陣地を直接壊滅できなくても、対レーダー兵器、シュライクミサイルでその射撃管制レーダーを潰してしまえば同じ事だ、と判断してこれによる攻撃を実行して行き、一定の成果を上げました。
レーダーは敵機を発見するだけではなく、敵機を撃墜するにも必須の装置であり近代戦においては、むしろこちらの射撃用照準という面の方が重大である、ともいえます。

なので発想を変えれば、もしレーダーに映らない機体があれば地上からの対空ミサイル攻撃で撃墜される事はない、という事になります。これが後にステルス技術という形で、アメリカ空軍にもたらされる事になるわけです。よってステルスは、敵に見つからない技術ではなく、その主要な目的は敵から攻撃されない、ロックオンすらできない、という所にあります。
実際、世界初の実用ステルス軍用機だったF-117の原型、ハブ・ブルーの最初のレーダーテストは、ナイキ対空ミサイルの照準レーダー相手に行われており、この時は全く反応を示さず対空ミサイル陣地を飛び越えて、アメリカ空軍関係者を狂喜させたのでした。
この辺りのステルス技術については、また後で見ることになります。

といった感じでレーダーのある戦争の話はここまで。


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