■第七章 エネルギー機動性理論の時代


■SACの終焉の始まり

とりあえずケネディ政権の登場まで、そしてベトナム戦争の終焉まで、アメリカ空軍を、それどころかアメリカ軍を牛耳っていたがの戦略航空司令部、SACでした。空軍内にいくつか造られた上級司令部の一つでしたが、後に戦略核兵器を独占的に運用する事で三大上級司令部の残りの二つ、戦術航空司令部、TACと、航空宇宙司令部、ADCに対し優位を確保し、以後ずっとその地位を維持していたのです。
そしてこのSACを常に率いていたのが、あのキチガイ将軍、カーチス・ルメイ閣下だったわけです。


■photo /US Air force & US Air force museum


この記事の主人公の一人、カーチス・E・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)は、あらゆる意味で人間のクズで、キチガイですが、間違いなく有能であり、そしてそれを十分に利用した出世主義者でした。

戦後のアメリカ空軍が核兵器による戦略空軍となる原動力だったルメイは、ケネディ政権登場直後1961年7月に空軍の最高責任者、空軍参謀総長に就任します。これが彼の栄達の頂点でした。
が、その核戦力至上主義、戦略爆撃最高、という思想はケネディとその跡を継いだジョンソン大統領、そしてマクナマラと常に対立を招きます。その結果、空軍がベトナムに参戦する直前の1965年2月、軍としてもっとも重要な時期に、あと半年の任期切れを待たず、わざわざ更迭されるという屈辱を味わう事になるのです。

そして軍を去った後、1968年に政治家への転向を計ります。人種差別主義者の最低の政治家として有名だった元アラバマ州知事、ジョージ ウォレスが二大政党に所属しない独自候補として立候補すると、その副大統領指名を受けて選挙に乗り出したのです。当然、落選に終わるのですが、それでもこの男がどういった政治思想を持っていたか、どういった人間なのかがよく判ります。

ちなみに1964年12月、空軍参謀総長解任のわずか3カ月前に来日してるのですが、この時、当時の日本政府、佐藤政権は勲一等旭日大授章を贈ってます。この時期の勲一等を受賞した外国人は極めて珍しく、わざわざルメイに贈ったのは頭がおかしい、という他無いでしょう。日本を焼野原にした、というだけでなく現職大統領と対立関係にあり、しかも狂人ですから、なんで?としか言いようがありませぬ。当時の日本政府がどういった連中だったかがよく判る例だと思います。
ただし、この辺りについては1961年に海軍作戦部長時代のアーレイ・バークにも同章を授けてるので、そのバランスをとった可能性もあります。もっとも同章をアメリカ陸軍参謀総長には贈ったことがないはずなので、どうも微妙な気はしますね…。

さて、戦略航空司令部、SACによる核戦略はアイゼンハワー大統領時代にニュールック政策(元々はファッション業界で新しい流行、といった意味で使われていた造語)として採用される事に成功してました。これは少ない軍人と少ない予算で効率的に共産世界を牽制できる軍備というSACの主張が受け入れられた結果です。これによってアメリカの軍備は核兵器中心で構成されて行く事になり、予算的にも空軍の優遇が続きました。

後に1960年代に入ると海軍は潜水艦から発射される弾道核ミサイル、SLBMを手にして一定の立場を取り戻すのですが、陸軍にはそういった兵器は無く、予算的にもアイゼンハワー時代には常に冷や飯を食わされ続けます。
このため、1955年から59年まで、アイゼンハワー時代に陸軍の最高責任者、陸軍参謀総長を務めていたテイラー(Maxwell D. Taylor)は退役直後の1960年にニュールック政策に公然と反旗をひるがえします。彼は核戦力に頼っただけの軍隊の無力さを訴える本、「不確かな進撃ラッパ(The Uncertain Trumpet)」を執筆、通常戦力による戦争にも備えるべきだ、核兵器だけの軍隊ではこれからの世界に適応できない、と訴えます。

そして同じ年、1960年の大統領選挙で勝利したケネディもまた、アイゼンハワーの核戦略に疑問を持っていました。
アメリカが戦争を決断したら、もはや核戦争しかありえず、それは当然、人類の存続を脅かす第三次世界大戦の勃発を意味する、という状況はあまりに愚かだ、と彼は考えました。例えば中南米の農業国が共産主義に転じてアメリカと対立したら、それらを制圧するにも核兵器しかないというのはあまりに馬鹿げてる、といった考えです。

さらにルメイ率いるSACが当初に主張したように核軍備が安上がりな軍隊にならなかったのも失望を買っていました。事実はむしろ逆で、すでに見たように、核武装が主力となったアイゼンハワー時代に国防予算は増えまくり、国家歳出の半分を占める事態になってしまっていたのです。さらにそこまで金をつぎ込んでいながら、アイゼンハワー時代にスプートニクショックが起きて、ソ連に核戦略上の優位を与えてしまっていました(いわゆるミサイルギャップ)。このため、ケネディは大統領選挙期間中、アイゼンハワーの軍事政策を徹底的に批判しています。

そしてケネディは選挙期間中にテイラーの本を読み、元陸軍参謀総長が主張する通常装備の軍隊への回帰に魅力を感じました。このためテイラーは大統領の軍事顧問として迎え入れられ、後に一度退役したにも関わらず、四軍の責任者から成る統合参謀本部の総責任者、統合参謀本部議長(Chairman of the Joint Chiefs of Staff)に抜擢され、1962年から64年までその地位にありました(その後、南ベトナム大使となってベトナム戦争に大きく関わる事になる)。

このテイラーの助言などを基にケネディ政権が新たに押し進めたのが“弾力的対応(Flexible response)”政策で、これは核兵器だけではなく、通常兵器にも重点を置き、平和か核戦争で人類滅亡か、という両極端な戦略を放棄するものでした。これは1963年のケネディ暗殺後に就任したジョンソン大統領にも引き継がれます。
その政策実現のために先頭に立った切り込み隊長がマクナマラだったのです。ただし、核装備を放棄するという意味ではなく、ICBMなどに関してはむしろ強化されてましたから、この点は誤解無きよう。あくまで通常兵器による戦争という選択肢を増やす、というのが主旨なのです。



戦略航空司令部、SACの紋章(Emblem)、である“戦略航空司令部の盾(Shield of Strategic Air Command)”が描き込まれたB-36の機首部。
鎧を付けた手が稲妻と同時にアメリカの国章に使われてる平和の象徴、オリーブの枝をへし折ってしまってますが、いいのか、これ…
余談ですが例の映画「博士の異常な愛情」で、狂っちゃった挙句に核攻撃を独断で命じる将軍の机の後ろに、“平和こそ我が任務”の標語と共にあったのがこの紋章で、当時からSACがどう思われていたかが良く判って興味深い部分ではあります。

ちなみに日本の資料では米空軍のこの手の紋章をインシグニアとカタカナ英語表記してるのが多いですが、アメリカではエンブレム、Emblem(紋章)とされる方が多いと思いますよ。Insignia(記章)でも間違いでは無いですが、普通に日本語で紋章と書けばいいじゃん、と常に思っております。



このケネディの弾力的対応政策は、SACの地位の低下を意味しましたから、当然、その反対の先頭に立ったのが空軍参謀総長になったばかりのルメイだったわけです。この結果、ルメイはマクナマラ、そしてケネディと対立関係に入ってしまいます。
特に自分が大統領に絶対的な忠誠を誓ってるのと同様に、部下たちにも自分への忠誠を求めるマクナマラとの相性は最悪だったと思われます(マクナマラは部下たちが自由に発言する事は許したし、意見を出すのも認めたが一度決定した以上、絶対的な承服と服従を求めるタイプだった)。
この辺りについては第二次大戦時代の両者の衝突が尾を引いていた可能性があり、さらに攻守が入れ替わり、かつての下っ端の部下が自分の絶対的に上司になるという屈辱にルメイの性格では耐えられなかったろうと思われる部分もあります。

ただしルメイは上司からの命令には絶対服従、という軍人らしい一面もあり(故に出世したのだ)、その対立は水面下のものに収まっていました。ところがベトナムの情勢がきな臭くなってきた辺り、1964年8月のトンキン湾事件のあたりから状況が変わって来ます。

■ベトナムの泥沼へ

ベトナム戦争については、有料増刊の記事を参照していただきたいのですが(宣伝)、アメリカとしては、あくまで南ベトナムの内戦という位置づけでした。資本主義陣営の南ベトナム政権に、国内の共産ゲリラ、いわゆるベトコンが政府転覆の戦いを仕掛けてる、というわけです。

当然、その共産ゲリラ、ベトコンの背後には北ベトナムがいて、さらにその背後には犬猿の仲ながら中国とソ連が控えていました。なので南ベトナムの内戦と言っても、その背後には別の大国が絡んでおり、話は単純ではありません。
さらに北ベトナムは中国と広く国境を接しており、これがアメリカの政府首脳陣に朝鮮戦争における北朝鮮を連想させました。ウンカのごとき中国共産党の人民解放軍(中国の軍隊は共産党の所属)が国境を突破して朝鮮半島に乱入、米軍を中心とした国連軍が一時壊滅状態に陥り、以後、停戦まで泥沼の戦いが続いたことを彼らは忘れてませんでした(朝鮮戦争の休戦からまだ11年しか経ってない)。

よって、アメリカ政府は極端に中国の介入を恐れ、このため北朝鮮への軍事的な侵攻を南ベトナム軍に許可しませんでした。1964年のトンキン湾事件が起きるまでは、あくまでアメリカの軍事顧問団によって支援された南ベトナム軍が、南ベトナム国内だけで戦ってる内戦だったのです。
なので南ベトナムは北ベトナム領内に特殊部隊を送り込んだり、高速ボートで港湾施設を攻撃したりしたものの、本格的に北ベトナムに戦争を仕掛けることはしてません。
ちなみに後にアメリカが北爆で北ベトナム相手に航空戦を仕掛けますが、それでも地上戦は行わず、南ベトナム軍も最後まで北ベトナムには侵攻しなかったので、地上戦に関しては北ベトナムは一度も戦場になってません。

が、トンキン湾事件により、その辺りの暗黙のルールが変りました。トンキン湾事件は1964年8月に起きた北ベトナム艦艇によるアメリカの駆逐艦攻撃です。まずは8月2日、北ベトナムの沿岸で電波情報を収集中だった駆逐艦USSマドックス(USS Maddox DD-731)が北ベトナムの魚雷艇(MTB)から魚雷と機関銃による攻撃を受けました。

これはその直前に起きていた南ベトナム軍による例の北ベトナムの港湾襲撃にこの駆逐艦が関係してると見た北ベトナムからの反撃でした(マクナマラによると実際は両者は無関係で北ベトナム側の思い違いとされる)。この攻撃に関しては偶発的な要素が大きい事からアメリカ側も慎重な対応を決め、報復攻撃はされない事に決定されます。ただし、この決定に軍部、さらには南ベトナム大使に転出していた例のマックス・テーラーが強い反対を唱え、報復を強く要請しています。この辺り、アメリカ相手に直接北ベトナムが本格的な攻撃をして来たのは初めての事だったのに注意がいります。

さらにその2日後、8月4日の現地時間21時ごろ、USSマドックスと増派されていた駆逐艦ターナー ジョイ(Turner Joy DD-951)から魚雷艇による夜襲を受けた、という報告が入ります。ただし夜間であり、本当に攻撃があったのかはっきりせず、マクナマラら政府高官は情報の確認に追われます。

この時はレーダーでボートの接近を感知したとするUSSマドックスから空母USSタイゴンデロガに応援要請がなされ、同空母からスクランブルでF-8が2機、飛び立つのですが、両機は最後まで北ベトナムの魚雷艇を見かけないまま帰還します。
そもそも夜間の攻撃であり、アメリカ側も当初はこれは暗闇の中で何かを誤認したものでないか、という推測に傾きました。まず攻撃の報告からほぼ4時間後、USSマドックスに乗船していた情報収集作戦指揮官の少佐が、襲撃の発生は怪しいと報告、太平洋方面軍司令官(Commander in Chief U.S. Pacific Command)だったシャープ大将(U. S. Grant Sharp Jr.)もマクナマラからの問い合わせに、攻撃があったとは断言できない、と回答しています。

が、その2時間後に少佐は、攻撃はあったと証言をひるがえし、その直後にシャープ大将も攻撃を受けた、との報告を行ってくるのです。これにより、前回の弱腰の対応に軍関係者から反発があった事もあり、統合参謀本部と協議の上、マクナマラは報復を決断、国家安全保障会議でジョンソン大統領がこれに許可を与え、空母USSタイゴンデロガとUSSコンステレーションから艦載機が北ベトナムの魚雷艇基地とその燃料設備へと爆撃に向かうのでした(以上はマクナマラ回顧録中で彼が当時の資料を調べ直して述べている部分による)。

ただし、多くの証言、資料により、この二回目の攻撃、8月4日の夜襲は完全な誤認だった事が後に確認されます。なのでこの攻撃報告はジョンソン政権がベトナム戦争に本格介入するための狂言だったのではないか、という説もあったのですが、マクナマラこれを否定、純粋な事故だと証言してます。この件に関しては、いくつかの点から見て、おそらくマクナマラが正しいと思われます。ただし海軍の対応が怪しいのは事実で、どうも何か狙ってやった感はぬぐえません。

このアメリカ軍による北ベトナム領内への報復攻撃が行われた結果、二つの不文律が破られてしまいます。一つは、アメリカ軍が直接この戦争に参戦してしまった事、そしてもう一つは今まで南ベトナムの内戦だった戦争に北ベトナムを巻き込んでしまった事です。
さらにこの攻撃の後、議会はいわゆるトンキン湾決議により、ジョンソン大統領に議会の承認なしで自由に戦争を遂行できる権限を与えてしまい、これが戦争の泥沼化へのアクセルを踏み込む原因となりました。

が、これによってアメリカがすぐにベトナム戦争の泥沼に巻き込まれた訳ではなく、当初、ジョンソン政権はそれ以上の関与に否定的でした。が、制服組の軍人の最高意思決定機関、統合参謀本部からマクナマラに対し、強くアメリカの関与が求められ始めます。その中心となっていたのが航空戦力による北ベトナムへの爆撃、いわゆる北爆の計画でした。
特に熱心だったのが言うまでも無く、空軍参謀総長だったルメイです。彼は北ベトナムに対する航空戦だけで、北ベトナムがこれ以上南ベトナムのベトコンを支援する意思を破壊できると主張、熱心に北爆を進言し続けます。当然、それは空軍力だけでこの戦争を片付けられる、という主張になっていました。

言うまでも無く、第二次大戦時の勝利を土台にした戦略爆撃論ですが、これはドイツや日本のように、一定レベルの産業、交通機関が存在する場合に有効なのだ、というハロルド・ジョージの理論の核心部は完全に置き去りになっていました。
農業国に過ぎず、戦闘もゲリラ戦であるベトナムでは、産業の中心も、交通網の中心も存在しませんでした。兵器も燃料もソ連、中国からの支援で、さらに軍事物質の多くは自転車や徒歩、せいぜい小型トラックで運ばれるだけであり、ここを叩けば全てがマヒする、という中枢など、どこにも存在しないのです。よってこの作戦が失敗するのは目に見えていたはずなんですが、最後まで空軍は北爆の効果を疑問視する事はありませんでした。

そしてトンキン事件の直後、1964年9月には早くも空軍主導で北ベトナム領内の94か所の爆撃目標が選ばれ、これの爆撃遂行を勧める勧告が統合参謀本部からマクナマラ相手に提出されます。この時、北ベトナムに対してアメリカは宣戦布告もしておらず、戦争状態にない国家の領内を一方的に爆撃しろ、というこの勧告はあらゆる点で狂気であり、この時代のアメリカ軍部の頭の悪さがよく判る例と言えます。

ちなみに陸軍参謀総長のジョンソン大将(Harold Keith Johnson)は北爆の効果を疑問視しており、統合参謀本部内では勧告に最後まで反対していたのですが、これは陸軍に先見の明があったのではなく、単に自分たちに仕事が無いから、というだけの話でした。
後にアメリカ軍の直接介入が始まると、陸軍出身の現地指揮官ウェストモランド(William Westmoreland)は、政府の指導を無視する形でなし崩しに陸戦に参入、ほぼ独断で戦線を拡大し、最終的に55万人を超えるアメリカ兵をベトナムに呼び寄せ、その10%以上、5万8千人もの死者をだす原動力となって行きます(この辺りは1937年ごろの日本陸軍における関東軍司令部の行動と驚くほどよく似てるのに個人的には戦慄を覚える。ホントにあの時代のアメリカは軍事国家一歩手前だったのだ)。

後にベトナム戦争に至る政府の迷走を描いたノンフィクション、ハルバースタムの「ベスト アンド ブライテスト(最高にきらめいて)」の中で、最大級の批判を受けており、実際、これもキチガイと見て間違いない、ウェストモランド大将ですがベトナム戦争の後には陸軍参謀総長に出世しています。全く無意味に5万8千ものアメリカの若者を殺して出世したわけで、まあ、どっちを見ても腐ってるんですよ、当時のアメリカ軍は。

結局、翌1965年に入ってから、最終的にマクナマラとジョンソン大統領は北爆の開始に踏み切るのですが、この辺りの事情は未だにキチンとよく判らない部分が多く、おそらくは軍の指導部に押し切られた結果のように思います。そして、その決定の直後、実際の北爆が始まる直前の1965年2月、ルメイは空軍参謀総長を解任されます。これは両者の対立と、これから本格化する軍事行動に関して、大統領と国防長官に対して邪魔になるであろうルメイが切られた、と見て間違いないでしょう。

ちなみに有名なルメイ語録、
「戦闘機を飛ばすのはお楽しみ、重要な任務は爆撃機がやる(Flying fighters is fun. Flying bombers is important)」
「爆撃で奴らの生活を石器時代まで送り戻してやる(We’re going to bomb them back into the Stone Age)」
が連発されたのもこの時期で、精神的にやや追い込まれていたのかもしれません。

ちなみにルメイは石器時代発言は誤解だ、私の主旨はアメリカにはその能力があるのだがら、バカな事はやめろ、という警告で、自分としては余計な犠牲を出したくないという意味だった、と述べてますがタワゴトでしょう。



最終的にルメイ無き空軍は北爆を開始するのですが、大きな損害が出ることを恐れた空軍は主力戦略爆撃機B-52をこれに投入しませんでした。
このため既に書いたようにF-105、後にはF-4ファントムIIがその主役となり、SACのB-52は南ベトナムのベトコン基地、輸送ルートである獣道があるジャングル一帯の爆撃に向けられ、アジアの田んぼを耕すのが仕事、と揶揄される事になります。さらにSACはまだ十分な権力を握っており、このため現地の指令系統に入っておらず、ベトナムの現地司令部どころか太平洋方面指令軍の指揮すら受けませんでした。驚くべきことに本国にあるSAC司令部がその指揮を直接取っていたのです(最後の最後、1972年のラインバッカー作戦 I & II では指揮権を戻していた可能性があるが確認できず)。

さらに当時のSACは世界展開する戦略爆撃機のために空中給油機もその配下に置いており、これらが現地司令部の指揮下に入らなかった事で非常な混乱を呼びます。結局、SACによる爆撃はほぼ効果が無かった事、現地でいらぬ混乱を呼んだことなどから、SACの評価はガタ落ちになりました。

そこに先に見た核兵器優先戦略の放棄、そしてルメイの事実上の失脚などが重なり、SACの凋落は決定的になります。そういった意味では、ベトナム戦争が戦略爆撃の、そしてSACの終焉だったと見ることが出来るのです。とはいえ、 ICBMを握っていたSACの影響はある程度残り、ルメイの跡も3代続けてSAC出身者が空軍参謀総長となっていたりしますが、それでも戦略爆撃が空軍の心臓部、という雰囲気はすでに消えてしまいます。

ちなみに北爆はジョンソンとマクナマラの介入で港湾施設、発電所などの重要設備が当初、爆撃目標から外され、敵の基地ですら反撃を受けない限り攻撃を認めらない、という無茶苦茶な状況で開始されました。これは両者が北爆に乗り気で無かった結果ですが、これが作戦に大きな負担になったのも事実です。

後に1972年に始まる最後の大規模攻勢、ラインバッカー&ラインバッカーIIでは両者ともすでに政府に不在でしたからこういった規制は無く、ある程度徹底的に北ベトナムを叩くことができました。
これによって北ベトナムをある程度追い込んだのは事実で、空軍関係者などは、最初からそうしてればベトナム戦争はもっと早く終わったとしてますが、それは疑問でしょう。
北ベトナムはラインバッカー作戦で大損害を受けますが、それで降伏するか、南ベトナムから手を引くか、は別の話、抗戦意思の問題であり、日本とドイツをみれば判るように爆撃でズタボロにされても、そう簡単には降伏しないのが普通です。地上軍の侵攻も、核兵器も使えなかった上に、先に見たような交通網、産業機関の心臓部なんて存在しなかったベトナム戦争で、最終的に北ベトナムが負けを認めたとは思えないのです。特に北ベトナムは対フランス戦からすでに25年以上も戦い続けており、負ける気なんてさらさらなかったと思われます。

実際、ラインバッカーI & II 作戦終了後、アメリカがベトナムを撤退する根拠となった1973年1月のパリ協定では1954年のジュネ―ブ協定まで遡ってベトナムの状況を整理する、とされただけで、何らアメリカに有利な条件は含まれてません。すなわち北ベトナムは何一つ譲歩してないのです。主な条文を見れば、

第1条 米国および他の諸国は1954年のベトナムに対するジュネーブ協定によって承認された独立、主権、統一、領土保全を尊重。

第4条 米国は南ベトナムに対する軍事、内政介入を止める。

第15条 ベトナムの再統一は、南北ベトナム間の協議と合意により、どちらかによる強制や併合を伴わず、諸外国の干渉なしで、平和的手段により
段階的に実現されること。再統一の予定は、南北ベトナムの合意によってなされること。

このようにアメリカの8年近い戦いは全く意味が無かった、と言っていい内容であり、そして結局、3年後の1975年に南ベトナム政府は北ベトナムによって崩壊させられます。ラインバッカー作戦はアメリカのプライドを保つための最後っ屁であり、それ以上の効果は何らなく、それは北爆が全て無駄だった、という事の証左でもあります。

このような時代背景により戦略爆撃と核兵器至上主義が終焉を迎えつつあり、まさにそんな時代にボイドのエネルギー機動性理論が登場、戦闘機の時代の再来を告げる事になるわけです。


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