■第五章 センチュリーシリーズの困惑


今回からは問題山積みというか、事実上空飛ぶ 問題そのものだったとすら言えるセンチュリーシリーズの各機体をそれぞれ見て行きましょう。まずは「戦術核」戦闘爆撃機に分類される2機から。

■ノースアメリカンF-100 スーパーセイバー



センチュリーシリーズのトップバッターだったのがノースアメリカン社のF100 スーパーセイバーでした。1953年5月初飛行。
ちなみにSuper saber は直訳するとチョー刀、という感じで、意味不明。

当初は純粋にF-86の高性能型、音速飛行が可能な制空用の戦闘機として開発が始まった機体でしたが、カーチス・ルメイ率いる狂気のSACが空軍全体を牛耳る時代にモロにぶつかり、後に戦術核兵器が運用可能な戦闘爆撃機に変更されてしまいます。実際、最も量産されたのは戦闘爆撃タイプのD型でありそのD型からは戦術核兵器を運用できるようになってました。よって機体の分類としては戦闘戦術核爆撃機だと思っていいでしょう。

この辺りはルメイ率いる戦略航空司令部、SACが核兵器の運用で空軍の予算まで独占しており、それに対抗して戦闘機を運用する戦術航空司令部、TACもまた予算確保のための核武装に走ったと思っておけば間違いないです。
後にアメリカ海軍も同じ道を進み、最終的に潜水艦によって世界中の海の底から発射できる核弾道ミサイル(SLBM)の完成まで突っ走る事になります。当時、核兵器は議会から予算を取るのに極めて有効な手段だったのです。

ただし、このF-100、ノースアメリカンの機体としは失敗作に近いものでした。P-51の主任設計者であり、F-86の開発でも指導的な立場にあった(こっちは実際の設計には関わって無いが)シュムードはこの機体の開発にはほぼとんど関わらってませんでしたし、彼は後にこの機体に対して批判的なコメントを残して会社を去り、ノースロップでF-5、T-38の開発チームの運営に携わる事になります。

なので決して出来のいい機体ではなく、試作段階と量産開始直後に連続して墜落事故を起こし、以後も現場ではほとんど欠陥機扱いだったとされます。実際、後のベトナムの戦場でもほとんどまともに活躍できないまま終わるのです。
これはもう単純にノースアメリカンの設計が劣っていた、と見るべきでしょう。当時の技術では難関としか言いようが無かった音速突破に気を取られてすぎた設計の結果だと思いますが、詳細は知りません。そしてこの機体を最後にノースアメリカン社の黄昏が始まる事になります。

ちなみにこの機体も1952年のウィットコムによるエリアルール1号発見の段階で設計が始まってしまっており、このためエリアルール未適用となってます。参考までにセンチュリーシリーズの中ではF-101とこのF-100だけがエリアルール無しの機体ですが、他の機体も全てエリアルール1号までなので、その効果は正直微妙だったでしょう(ちなみにF-104の主翼横胴体の絞り込みはかなり微妙でエリアルールではないという説もあるが、少なくとも判っていてやってるはず)。

F-100は最初のA型、そしてC型、D型と発展し、途中のB型が存在しません。なんで、というと本来、単なる機能向上型になるはずだったB型は迷走の末、全く別の機体になってしまったからです。それがセンチュリーシリーズの中で実機まで造られながら、唯一正式採用されないで終わった例のF-107でした。

ちなみにF-100の主武装はリボルバー式の機関砲でしたが、実用段階に入りつつあった赤外線追尾ミサイル、サイドワインダーの本格運用もこの機体から始まっています。それまでのファルコンミサイルは直線飛行する戦略爆撃機だけを目標とする誘導ミサイルだったので、戦闘機相手に使えるサイドワインダーを搭載したF-100が事実上、アメリカ空軍初の誘導ミサイル運用戦闘機となります(サイドワインダー開発者であるアメリカ海軍は話が別で恐らくF-2Hが最初)。

ここでちょっとだけ脱線。F-100に積まれていたのがこのM39 20mmリボルバー式連射砲でした。
一見するとただの20o機関砲ですが、これはリボルバー カノンというちょっと変わったもので、通常の機関砲より高速連射が可能なものとなっています。



矢印の先に見えるリボルバー拳銃のような筒部(シリンダー)が銃身の後ろについていて、これが回転しながら、次々と弾の装填と排莢を行なうタイプの連射砲なのです。
給弾は画面左の孔から行ない、その前のシリンダー(弾筒)に弾を押し込んで装填、これが高速回転して次々と弾を打ち出し、その後で排莢します。これによって通常の機関砲が一か所で連続して行う遊底の後退と排莢、そして次弾装填の作業を別々の場所で平行して行い、速射性を高めてるようです。
ただし、速度限界はそれほど高くなく、後に砲身ごとまるごとぶん回すヴァルカン砲にとって代わられるのですが、ヨーロッパでは未だに現役で、ユーロファイター タイフーンなどはマウザー製のリボルバーカノンを搭載してます。

ちなみに誘導ミサイルが出てきたならもう機関砲なんていらない…などとは、この当時のアメリカ空軍はまだ考えてませんでした。実際、全天候型迎撃戦闘機以外のセンチュリーシリーズは全機、機関砲(リボルバーカノン)かヴァルカン砲を搭載しています。そういった考えが出てくるのはベトナム戦の後からで、F-15の開発時に機関砲不要論が議論された時が最初で、そして最後です。それ以前の空軍は機関砲の搭載は必須と見ていました。この点はよく勘違いされてるので注意。

実際、海軍の開発によるF-4ファントムIIに機関砲が無かった事に空軍は強い抵抗を見せ、後期の空軍型では独自にヴァルカン砲を積んでしまいます。ただしこの場合は対空戦闘よりも対地攻撃時に適切な攻撃手段が無い事に対する対処でした。爆弾を投下してしまうと地上の対空砲に対処する手段が無い、という問題から出てきた対策だったのです。同時に、低空爆撃時にはヴァルカン砲で弾をまき散らしながら敵陣に突入した方が安全性が高い、という面もあったとされます。
 
ちなみにF-4ファントムII に機関砲が無かったのは、開発者の海軍としてはこれを艦隊防衛用のミサイル戦闘機、遠くからレーダーで敵を捕らえて狙い撃ちにし、目視距離の外から迎撃してしまう機体として開発したからです。その任務なら、機関砲なんて使う場所が無かったからですが、結局、戦闘爆撃機に用途変更されてしまったので、エライ目に合います。それでも海軍は最後までヴァルカン砲を搭載しないんですけど、失敗したという自覚はあったようで、後に同じ用途で開発された艦隊防衛用ミサイル防衛戦闘機の後継機、F-14にはヴァルカン砲を最初から搭載してます。

■リパブリックF-105 サンダーチーフ



センチュリーシリーズの中で唯一、最初から戦術核を積める戦闘爆撃機として開発され、そのまま採用されたのが、このリパブリック社のF-105サンダーチーフでした。前回見たF-107との競作に打ち勝って採用された機体でもあります。
(F-100は後から戦術核爆撃機に変更された機体。F-101は当初戦術核爆撃機だったが後に採用中止となり迷走する…)
ちなみに横からだと判りにくいですが主翼横の胴体が絞り込まれ、エリアルール1号が適用されてます。ただしこれもF-102と同じく試作段階の途中から取り入れられたもので、最初の設計では採用されてませんでした。ちなみにリパブリックではこれを“ハチのくびれ(Wasp twist)”と呼んでたそうな。

すでに後退翼型のF-84ことF-84Fから戦術核爆弾の搭載は始まっていたのですが、同じリパブリック社に発注されたのが、その進化型ともいえるこのF-105でした。このため戦術核搭載用の爆弾庫を胴体内に持っており、Fナンバーの単座機(練習型、対ミサイルサイト攻撃用の複座型もあったが)ながら胴体内に爆弾庫があるという変な機体にもなってます。
ついでにP-47などの設計で知られるアレクサンダー カートヴェリが最後にかかわった機体でもあるのですが設計部門の総責任者としての参加なので、実際の設計にどこまで絡んでいたかはよく判りません。

この機体から最高速度がマッハ2を超え、戦闘機もマッハ2時代に入って行くのですが、そんな速度をどこで使うのかは微妙でした(笑)。敵のミサイルを早期に発見した時にダッシュで逃げる、程度にしか使い道がなく、しかもアフターバーナー点火でベラボーに燃料を食うので、ミサイルから逃げ切った段階では基地に戻る燃料が無い、という事態になりかねませんでした…。使いどころが難しい高性能と言えるでしょう。

ついでに上で見たF-100もF-105も同じ戦術核を搭載する戦闘爆撃機なんですが、両者の最終形態の価格を比べて見ると F-100 D(攻撃機型)が1956年採用で一機当たり 約$704,000、対してF-105Fは 1963年採用で 約$2,237,000 と実に3倍もの価格差があります(数字はアメリカ空軍博物館による)。7年しか差が無いのでインフレだけでは説明できず、これは純粋に価格の高騰と見ていいでしょう。F100まではまだ、電子関係の装備がそれほど多くないですから、恐らくそこら辺りで、ここまでの差がついてしまったんでしょうか。
その高価なF105の全生産数830機の内、4割以上をアメリカ空軍はベトナムの空で失った、とされてますから、戦争というのは、相手のケツを札束で燃やしながら戦うようなものなのです…。    
 
ちなみに、この機体も開発はやや手こずり、F-105の本命と言っていいD型の配備が始まったのがようやく1960年でした。
でもって、その翌年にケネディが大統領に就任すると、全面核戦争を前提とした空軍の方針は全て方向転換を命じられ、核爆弾一筋だったF-105は配備から半年で、存在意義が消えてしまいます。ケネディは1963年に暗殺によって大統領の座を去りますが、跡をついだジョンソン大統領もこの方針は維持します。国防長官はマクナマラが留任しましたしね。

その結果、迎撃戦闘機にしようという計画すら出て来たのですが、後に通常爆弾を主翼下に積んでベトナム戦争における運用が始まり、最後は地対空ミサイル(SAM)の発射基地を空から強襲する過酷な任務、いわゆるワイルドウィーゼル部隊にまで投じられる事になるのです。ちなみに胴体内の爆弾庫は核爆弾用だったため通常の爆弾搭載には向かず、ベトナム時代には燃料タンクなどを入れてしまっておりました。意味無いよねえ…
ちなみにその爆弾庫の関係もあって、のちにF-35が採用されるまで、約40年近くアメリカ空軍史上最大の単発ジェットエンジンの戦闘機でありました(ちなみに重量と全幅ではデブのF-35に抜かれたが、全長は未だに最大)。

なのでベトナムでは、それこそ第二次大戦中のB-17やB-24といった戦略爆撃機に近い任務までこなす事になります。当然、地上部隊の支援はほとんどやってません。というか、そういった任務には全く向いてないのです。
このため、前回も説明したように陸軍部隊への近接航空支援(CAS)任務は海軍からAD-1(A-1)スカイレーダー、A-7攻撃機を急遽導入することで対応する、というドロナワな展開になっています。

ただしF-105はFナンバーの戦闘機らしい働きもしてはいます。ベトナム撤退後にアメリカ空軍司令部がまとめたCombat Victory Credits Southeast asiaによればF105はベトナム戦の間に、計30機のミグ17の撃墜スコアを公式認定されてるのです(1974年改訂版。アメリカ軍の撃墜記録は、戦争終了後も何度も改定されるので要注意)。
内訳は単座のF105Dが25機、複座のF105Fが6機。ただしF105Fの内2機は共同撃墜のためスコアとしては0.5機ずつで最終撃墜スコアは計5機、よって全部合わせて30機の公式スコアとなります。センチュリーシリーズの中では唯一、ミグを堕とした機体なのです。もっとも撃墜記録は実際の撃墜数よりも数倍の数になってるのが普通なので実数はその半数以下と見るべきでしょうが、それでもこの機体が空軍ではF4ファントムIIに次いで第二位の撃墜記録数を持っています(大差を付けられての二位だが)。

ただし撃墜できたのはF105に比べて一世代は古いミグ17のみであり、新型のミグ21の撃墜数はゼロ、逆にミグ21には少なくとも10機以上が撃墜されたと見られてます。ほぼ同世代機ですが、純粋な戦闘機であるMig-21の敵では無かったのです。この辺りがやはりセンチュリーシリーズの限界だったのでしょう。


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