■第六章 ジョン・ボイド


■ボイドの略歴

今回からジョン ボイドの活動を追いかける事になりますが、その前に簡単な略歴を紹介して置きましょう。

ボイドがエネルギー機動性理論によって空軍から表彰され軍の内部で一目置かれるようになったのが37歳の時であり、それまでは一部の戦闘機乗りの間では有名だったものの、基本的には出世コースから脱線した冴えないパイロットの一人に過ぎませんでした。とりあえずその無名時代の終わりまでの彼の経歴を見て置きましょう。

■青年期まで

ボイドは1927年1月23日、アメリカ北部、ペンシルバニア州にある五大湖の一つ、エリー湖湖岸の小さな町で生まれています。これは大恐慌2年前であり、すなわち彼の少年期はアメリカと世界が経済的に大混乱した時期で、あまり明るい時代ではありませんでした。
第二次大戦が始まった時には12歳、アメリカが参戦した段階で14歳でしたから軍に入隊するには若すぎ、大戦初期は普通に高校生として過ごしてます。ちなみに運動は得意な方で、高校時代は水泳選手として、州内では知られた存在だったようです。

その後、1944年の秋に17歳になると、徴兵の対象となり一般兵は大変そうだ、という理由で陸軍航空軍を志願したのですが、この選択がその後の彼の人生を決めてしまうことになるのでした(実際は1945年4月まで在学し、繰上げ卒業(アメリカの卒業は本来6月)の形で徴兵された)。
当初はパイロットを志望したものの適正無しとして落とされてしまい(戦争後半なので以前ほどパイロット養成に軍も熱心ではなく、その影響も大きいだろう)、基本訓練終了後、整備士としての訓練過程に入り、その直後に終戦となってしまいます。
が、彼はすぐには除隊できず、占領軍の一員として日本に送られるのです。ボイド、日本に来ています。この時は8th Fighter Squadron の一員として派遣されているので、おそらく厚木に居たと思われますが、ボイドは1947年1月まで軍に籍を置いてましたから、その後、千歳に移動した可能性があります。ただし、この点は確認取れず。また、日本時代については基地の中でいろんな悪さをした、程度の談話しか残っておらず、詳しくは不明です。

さて、その後、ようやく除隊した彼は故郷に帰るとアイオワ大学で経済学をやろうと進学しました。これは、1944年 軍人再訓練法案(Servicemen's Readjustment Act of 1944 いわゆるG.I. bill)によって除隊となって本国に帰国したアメリカ兵は大学などに進学する際、一定の国の経済援助が受けられたからだと思われます。
ついでに力学のカタマリ、エネルギー機動性理論を生み出した彼は、実は文系出身だった、というのはちょっと覚えて置いて下さい(この時代の経済学はシカゴ大学の一部などを除けばほとんど高度な数学を駆使しない)。

ちなみに当時のアイオワ大学の水泳チームは強豪で、ここに加わるのも目的だったようですが、不幸にも同時期に1948年のロンドンオリンピックで金メダルを取ってしまうウォーリー リス(Wally Ris)が水泳部に在籍、ボイドは全く彼には適わず、水泳ではパッとしないまま終わります。ただし、リスの方が年上だったため、その卒業後は大学の代表チームには入っていたようです。

が、いずれにせよ、どうも勉強も水泳もイマイチだったようです。そもそも彼に経済学は向いて無いでしょう。
このため後年、“私はあのトウモロコシ大学に何で入学したんだろうね。何も得ることはなかった”と語っており、あまり充実した大学生活ではなかたようです。ただ、大学在学中に奥さんになるマリー(Mary)さんと出会っているのですが、彼の結婚生活も、家庭も、悲惨と言うしかないものになるので(ただし、ほぼ100%ボイドに非があるが)これも良かったのか、悪かったのか…。

さて大学卒業後は特にあてもなく、だったらあらためて空軍に入隊し今度こそパイロットになる、とボイドは考えたようです。なので大学3年になると予備役兵に登録、4年に進級する前の夏休み、その訓練キャンプに参加することを決めます。これは卒業後に改めて入隊するより有利という部分がある制度ですが、同時に学生予備役兵は月に28ドルの給付が受けられたそうで、これも欲しかったんだと本人は語ってます。
当時のアメリカ人の平均年収は約3200ドルで、2017年で約57000ドル。差は約18倍ですから、当時の28ドルは2017年換算で月だいたい504ドル、約5万2000円前後と考えておけば大筋であってるかと。学生にとってはちょっとした金額でしょう。

ただし後のボイドは金に全く頓着しない人で、空軍引退後はほぼ無報酬で講演などの依頼を受けていました(おかげで家族はエライ迷惑をこうむるのだが…)。なので、こういった理由で彼が行動するのは珍しく、当時、彼の家はお世辞にも裕福ではなかったため学資に当てていたのかもしれません。

でもって、この予備役キャンプに参加した大学3年生の夏休みに、空気を読まないことでは世界最強だった金さんと毛さんが組んで、朝鮮半島において暴力的南下を始めてしまうのです。すなわち1950年6月、朝鮮戦争が勃発ですね。この時、ボイドは、まさに空軍の予備役訓練キャンプに居たのでした。
ただし学生だったので、翌年、1951年の卒業を待って彼は改めて空軍に志願、今度はパイロットの適正試験も無事にパスして、訓練学校に入る事になります。この時、彼は最初から戦闘機パイロットを志望してます。でもって訓練コースに入ると、なぜか早食いと大食いで訓練部隊の有名人になったそうな。ちなみに大食いはボイドの生涯を通じての特徴なんですが、あまり太ってる写真は残って無いので、不思議な人ではありますね。

空軍のパイロット候補生は、訓練学校卒業時に配属が決まるのですがボイドは“背が高すぎてコクピットに入らん”という理由で爆撃機のパイロットに回されそうになります。ただしSAC全盛の当時の爆撃機パイロットは出世コースですから、おそらく成績はそこまで悪くなかったのでしょう(基本的に訓練学校では成績の優秀な順に希望コースに回れる。1980年代以降は戦闘機パイロットが一番優秀な連中の行き先になるのだが、それ以前の場合はよく判らず)。

ただしボイドにとって幸運な事に朝鮮戦争は戦闘機の戦争であり必要なのは戦闘機乗りだったのでした。このため彼がどうしても戦闘機に乗りたい、と抗議すると比較的簡単にその通りになったようです。同時に、これで彼は出世コースから早々と離脱してしまった事になるわけですが…。ちなみにボイドは最後まで爆撃機乗りをどこかバカにしてるところがありました。

余談ですが、空軍の戦闘機乗りが爆撃機をバカにするときはトラックと呼ぶのですが、これは操縦棹がスティックではなく車のハンドルのような形状だったからのようです。さらに余談ながらU2偵察機のパイロットとして空軍から派遣された戦闘機パイロットが初めてコクピットを見た時、操縦棹がスティックじゃないじゃん、とショックを受けてますので操縦棹の形状は、意外に重要らしいです…。そういうものなんですかね。

とりあえずボイドは既に旧式になっていたF-80で訓練後、1952年9月からF-86での訓練に入り、80時間の訓練が終了した1953年3月朝鮮半島に派遣される事になります。それまで全く飛行機なんて操縦したこともなかった若者を約1年半の訓練だけで戦場に送り込んでるわけですから、アメリカ空軍もそれなりに切迫していたのかもしれません。ついでに、ボイドによれば彼が訓練を受けていた期間に少なくとも17人以上が事故で亡くなった、といいますから、やはり1950〜60年代のアメリカ空軍は、どこか狂ってる、という気がします。



ボイドが最初に乗った本格的な戦闘機がこのF-86でした。運動性のいい、生粋の戦闘機だったこれに乗っていた、という経験は彼の後の活動に大きな影響を与えたように思います。この後、彼の乗機はF-100に移行しますが、その後は戦闘機から降りてしまうので、意外に戦闘機に乗った経験は少ないのです。ファントムIIには恐らく乗ってませんし、彼が開発の責任者だったF-15、F-16ですら、自ら操縦した事は無いと思われます。この辺りについては不思議な人です。

ボイドが朝鮮半島に派遣されたのは、休戦まであと4ヶ月、という時期ですから、30回以上の出撃を記録してるものの最終的にミグ15を一機損傷させただけで終わりました。つまりボイドは実戦経験はあるものの、撃墜数はゼロです。
ただしボイドは戦闘機乗りとしての技量を、この時代に一気に積み上げます。F-86という空中戦向きの機体を使い、時間があればいくらでも模擬空戦ができた朝鮮の空は、彼にとって最高の訓練場となったわけです。ちなみにこの時期に彼は日本を再訪してる可能性があるのですが、確認は取れず。

さて、1953年の夏に朝鮮戦争は終わり、彼もアメリカに帰国、次の任務に就くことになります。新たな任地はネリス空軍基地の訓練学校でした。そこで後に教官に転じた彼は最後まで模擬空戦で無敗のまま、その地を去る事になるのです。



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