■第一章 戦略空軍への道


■SACの主張

戦略航空司令部、SACが空軍内で権力を掌握してゆく過程の重大要素として、予算の確保がありました。
軍はお金で動くので、予算をたくさん取って来れるやつがエライのです。この点、SACとそのボスのルメイは疑う余地なく辣腕でした。

大戦後、独立には成功したものの、アメリカ空軍はなにせ予算がありませんでした。重度の金欠だったと思っていいでしょう。
戦争中に使った膨大な戦費はもう無くなり、逆に対照的とも言える緊縮財政に入ります。国家としてのアメリカが戦費で破産しかけていたからです。
実際にはお金だけではなく、ベテラン隊員まで終戦による動員解除で次々に除隊して行き兵器の維持管理すら心もとない、という状況になります(パイロットは多くが士官だったので、ある程度の人数が残ったらしい)。
どうするんだと空軍の指導者たちがアタマを抱えてる時、戦略空軍司令部のボスとして着任したのがカーチス ルメイでした(ちなみに直前までベルリン空輸作戦を指揮していた。確かに有能ではあるのだ)。その就任後、彼が軍上層部に提案したのは実に単純でしたが、魅力的なアイデアでした。
簡単に言ってしまえば、もはや通常の戦力は要りませんよ空軍が核兵器に特化するだけでいいのです、と彼は主張します。

アメリカは第二次大戦においてその航空戦力を敵国家の直接破壊に投入し成功しました。ドイツと日本相手にやった戦略爆撃がそれです。
さらに今なら核兵器という都市一つを一瞬で消し飛ばしてしまう兵器まであるので、もはや航空戦力で敵国家を直接破壊する事が可能であり、だったらもう通常の軍隊はいらないでしょ?というのがルメイの主張でした。
核爆弾なら、開戦直後に敵国内の主要部に数発落すだけで国家基盤を即座に壊滅することが可能ですから、それを行う戦略爆撃機、そして敵の核爆撃機がアメリカに飛来した場合に備える迎撃戦闘機のみで戦争はできるよ、という事です。確かにその通り、という気はしますね。

ただしその理屈、すなわち“通常航空兵力は不要論”が通じるのはあくまでルメイが想定していた戦争の場合のみでした。
つまり、ソ連相手の総力戦の場合だけです。それ以外の戦争だと、彼らの理論には致命的欠点がありました。
すなわち政治的な制約などがあり核兵器でポンという戦争ができないケースです。こうなると地上戦が避けられず、航空優勢の確保を行う空軍の存在は必須です。でなければ輸送、偵察、地上支援といった近代戦に不可欠の航空活動が不可能なのです。ところがこれらの任務を核兵器に特化した空軍で行うことはできません。この点を戦後のアメリカ空軍は完全に読み誤る事になりました。

彼らは仮想敵であるソ連の中枢を破壊すれば戦争は終わり、その点だけ考えればいい、と判断したのですが、戦後にアメリカ空軍が参戦する事になった朝鮮戦争、ベトナム戦争は、どちらも泥沼の地上戦を伴う“通常兵器の戦争”になってしまうのです。この結果、それらに対する兵器を全く持っていなかったアメリカ空軍はベトナムで悲惨といっていい状況に追い込まれてゆきます。

さらに言えば、実際の戦略空軍の装備は、ルメイたちが主張するほど安価でもありませんでした。
ルメイ率いる戦略爆撃司令部、SACの提案する“これからの軍隊”は、確かに従来よりもコンパクトな軍隊になりそうでしたが、それに必要な地球のどこにでも飛んで行ける戦略爆撃機のB-36、そして高速なジェット爆撃機のB-47はビックリするほど高価なものとなり、軍の財布のヒモを握る議会としては、簡単には予算を認めかねるシロモノとなって行くのです。



■1950年代を象徴する戦略爆撃機B-36。
6発エンジンに加え後に補助ジェットエンジンまで付けた戦後の大型戦略爆撃機です。
前回も説明したように本来は第二次大戦中に配備され、
ドイツ爆撃に投入される予定だったのが開発が遅れに遅れて戦後の配備となったものでした。
その間の開発費の高騰、物価の上昇などによりB-29の5倍近い価格になってしまったと言われてます。
予算削減中の戦後の空軍としては、そう簡単に買える機体ではなくなっていたのです。



しかし、これらの機体を手に入れられるかどうかが空軍の、そしてルメイ率いるSACの命運を決めます。戦略爆撃機を手にいれられなければ、猫を捕まえ損ねた三味線屋のごとく戦略空軍なんて成立しないのです。そこでまずルメイは空軍の予算の確保のため、他の軍の予算に目を向けます。彼が目を付けたのは海軍と空母でした。
既に実用化されていた空中給油機との併用で、世界中のどこにでも飛んで行ける戦略爆撃機があれば海軍と空母は不要だ、とまるでミッチェルの時代の再来のような主張を彼は始めます。そして1949年3月にB-29の改良型、B-50を使って空中給油による無着陸世界一周飛行を成功させ、この点を強くアピールして行きます。

こうしてルメイ率いるSACと空軍は1948年から1949年にかけ戦略爆撃機のための予算確保を狙って海軍相手に今後の米軍のありかたの論争を吹っかけます。通常戦力は要らない、金のかかる戦艦も空母も廃止して、核爆弾による戦略空軍を造った方がはるかに効率がいい予算の使い道だ、というのが彼らの主張でした。
そしてこの主張は少しずつ議会に受け入れられてしまいます。その結果、この時期に建設が始まっていた大型空母USSユナイテッドステイツ(CVA-58)は建造中止に追い込まれ、同型艦4隻も計画中止となってしまいます。そして海軍支持派だった初代国防長官フォレスタル(James Vincent Forrestal)は1949年3月に自殺に追い込まれ、さらにルメイ一派は海軍と海兵隊の廃止まで主張したため、海軍は存亡の危機を迎える事になり1949年半ばにその危機感はピークを迎えました。

このため当時の国防長官ジョンソンとB-36戦略爆撃機の製造メーカーコンベア社の癒着疑惑を海軍関係者がマスコミにリークしたり、国防省の方針に真っ向から反対する論文を海軍の高官が雑誌に発表といった文民統制への反逆行為が続々と発生します。
これがいわゆる“提督の反乱(Revolt of the Admirals)”と呼ばれる一連の事件です。その一部には既に海軍を退役していたニミッツまで駆り出されていました。その存亡がかかってましたから、海軍側も必死だったのです。

ところが、この一連の闘争はその直後、1950年の朝鮮戦争の勃発によってあっさり収束します。朝鮮戦争初期、戦略空軍に軸足を移しつつあった空軍が全く役に立たなかったのです。逆に現場海域に急遽空母を展開、事実上の海上航空基地として運用した海軍は、空母機動部隊が戦争そのものの行方を左右する戦略兵器となりうることを証明します。この結果、一連の論争は空軍の優勢勝ちながら最終的には海軍も一定の立場を確保した状態で手打ちとなりました。

それでも最終的には海軍、さらには陸軍にそのしわ寄せを負担させる事で空軍は優先的に予算を確保する事に成功します。この点を少し具体的に見て見ましょう。
1954年2月1日号のTIME誌に載った記事によると、1955年度国防予算、つまり朝鮮戦争後の“アイゼンハワーの狂った軍事支出時代”終盤のアメリカの国防予算は総額で376億ドルでした。
これは現在の十分の一程度の規模ですが、当時としてはかなりの金額です。その1955年の国防予算配分先は空軍が突出しており162億ドル。全軍事予算(空軍、陸軍、海軍、海兵隊の四軍の予算)の43%を空軍が単独で得ているのです。均等に分配すれば25%どまりですから、空軍は相当優遇されてると考えていいでしょう。

こうして朝鮮戦争終了後はSAC率いる戦略空軍がアメリカ全軍の主力となり、そんなゆがんだ状況はベトナム戦争まで続き、この戦争で空軍が手痛い敗北を喫するまで改まらなかったのでした。

■アメリカ空軍における戦略爆撃屋の凄みを感じるにはその一番偉い人、歴代参謀総長の出身を見るのが一番早いでしょう。

アメリカ空軍博物館にある歴代総長早見表(仮称)を使って、
初代のスパーツから冷戦終結時のウェルチまでの12人の総長を抜き出し、
戦前からのボンバーマフィアにはBMを、戦後のSAC出身者にはSACの文字を付けて置きました。
(キチガイ将軍ルメイは両者を兼ねているので両マーク付き)

はい、12人中7人、約2/3が戦略爆撃屋なのです。
1970年代までに限れば、10人中7人、7割が戦略爆撃屋という恐るべき組織でした。
そりゃ戦闘機の開発なんて適当になるよな、という感じですね。




■ICBM の魔力と罠

アメリカ空軍の目的は核兵器の運用であり、当時の主力兵器である戦略爆撃機はあくまでその運搬手段にすぎません。
なのでもっと安全に、もっと効率よく、そして迎撃不可能なほど高速に敵本土に核兵器を撃ち込めるなら、戦略爆撃機すら要らなくなります。そんな都合のいい兵器が実在するのか、と思っていたら予想外の方向、すなわちソ連が先にこれを実用化段階に持ち込んでしまうのです。
それが弾道核ミサイルで、事実上の宇宙ロケットであるこの兵器は宇宙空間まで到達する大きな弧を描きながら地球の裏側まで到達可能でした。さらに音速をはるかに超える高速ですから事実上、迎撃は不可能で1時間以内に世界中のどこにでも核弾頭を撃ち込んでしまえる“夢の核兵器”として登場します。

1957年10月、アメリカがまだソ連に対する戦略爆撃機の圧倒的優位を確信していた時に、ソ連は世界初の人工衛星、スプートニク1号を打ち上げてしまいました。
これにアメリカ軍は大ショックを受けるのですが、それは宇宙ロケットと人工衛星の実現においてソ連に先を越された、というロマンチックな話ではなく大気圏外まで人工衛星を打ち出せるロケットがあるなら、それはアメリカまで届く弾道ミサイルも造れるという事を意味したからです。さらに困ったことにソ連はすでに核兵器を持っていました。

ただし現実にはソ連は大気圏外まで打ち出す技術はあったものの、これを大気圏内の目標に向けて正確に再突入させる技術は持ってませんでした。
ゆえに再突入不要の人工衛星という形での示唆行為を選んだのであり、さらに当時のソ連の核弾頭はロケットに積めるほど小型ではありませんでした。つまり現実的な脅威では無かったのですが、このソ連のフルシチョフによるハッタリ宣伝戦術にアメリカはすっかり騙される事になります。



■写真はアメリカで造られた原寸大模型のスプートニク1号。
ソ連が打ちあげたこの小さな人工衛星がアメリカの空の防衛を根底から覆してしまうのです。この辺りについて詳しくはまた後で。



こうなると、もはや対空レーダー網も、防空システムも全く意味が無くなってしまいます。それらは戦略核爆撃は撃ち落とせても、宇宙から高速で落下してくる弾道ミサイルには無力だったからです。

実際は多分にソ連のハッタリだったのですが、それでもB-36でソ連に飛んでゆく間もなく、一方的に高速核攻撃を受け、反撃する間もなく敗北する可能性が出て来たのは間違いありませんでした。こうしてアメリカもあわてて弾道核ミサイルの開発に邁進、やがて米ソともに長大な射程距離を持つ大陸間弾道ミサイル、いわゆるICBMを配備して行く事になるのです。当然、このICBMがSACの主力兵器となって行きます。

そうなるともはや戦略爆撃機も護衛戦闘機も、さらには防空戦闘機も全く無意味という事になってきます。となると今度はアメリカ空軍自体が要らないのではないか、というジレンマにSACは陥ります。
核装備というのは技術的には高度ですが、その反面、少ない人員と限られた兵器で維持管理が可能な安価な軍隊を生み出してしまいます。後に21世紀に入ったイラン、北朝鮮などの貧乏空軍がそういった軍隊を目指す事になりますが20世紀のアメリカ空軍としては極めて不本意でした。自己の優位の確保のために進めていた戦略理論が、最終的には自分も要らない、という予想外の結論に達してしまったからです。
こうなると空軍の将軍連中ですら、間もなく全員失業の可能性が出て来ます。さらに海軍が潜水艦から発射できる弾道ミサイル、つまり敵に場所を知られず、いきなり不意打ちできる潜水艦搭載核弾道ミサイルの開発に成功、空軍の優位は一気にゆらぐことになるのでした。今度は空軍が海軍から突き上げられる事になったのです。

そこからアメリカ空軍の迷走が始まり、さらに数年後に始まった通常戦力だけの戦争、ベトナム戦争でアメリカ空軍は一度死んだ、といっていいほどの衝撃を受ける事になります。
その衝撃と敗北からの復活に大きな役割を果たした男、ジョン・ボイドがやがて登場する事になりますが、その辺りは後の機会に見る事にしましょう。とりあえずアメリカ空軍は戦略爆撃から生まれ、その戦略爆撃によって一度、死を迎える事になるのです。

最終的に人類を複数回全滅させられるとされるほどの威力を冷戦中に米ソが持つに至った弾道核ミサイル。この空軍の究極の夢だったはずの弾道核ミサイルは、むしろどんどん空軍の首を絞めて行く事になります。
さらに核兵器に特化してしまっていたアメリカ空軍は、核戦争とは正反対ともいえる原始的な通常戦争、ベトナム戦争に突入し、そこで彼らは自分たちの過ちをいやというほど知ることになるのでした。それがSACによる空軍支配の終焉を意味する事になります。

といった辺りがアメリカ空軍が戦略空軍になって行く流れ、そしてその崩壊の萌芽に至るまでの流れです。
はい、とりあえず今回はここまで。

 



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