■第一章 戦略空軍への道

 
■航空戦計画局/AWPD

第二次大戦におけるアメリカの戦争方針の一部となった戦略爆撃計画はアメリカ参戦わずか半年前、1941年の夏にジョージ率いる航空戦計画局(AWPD)で急遽作成されたものでした。ヨーロッパの戦争が始まってからだと実に2年も経ってからのことになります。計画のスタートラインとしては、かなり遅いと言っていいでしょう。では、航空戦計画局(AWPD)とはどんな組織なのか、そしてそこで具体的にどんな爆撃計画が立てられたのかを見て置きましょう。

アメリカの参戦が避けられない、という雰囲気になって来た1941年7月8日に陸軍が立ち上げた組織が、航空戦計画部(Air War Plans Division/AWPD)でした。本来は陸軍の地上部隊への支援計画を立案するための組織だったようですが、その立ち上げ責任者として着任したのが戦略爆撃の信奉者、ハロルド ジョージだったのが大きく歴史を動かします。ただし、この人事はボンバーマフィアの統領にして陸軍航空部門の責任者アーノルドの手によるので、チャンスがあれば戦略爆撃計画を立ててしまおう、と彼らが最初から考えてたフシはあります。当時のジョージは大佐でしたから、組織としてはそれほど高度な責任を持って無かったはずですが、この航空戦計画部が後の戦争を、そして戦略爆撃を根底から変えてしまうのです。
ただし陸軍上層部に航空部門の作戦計画も支配されてました。ジョージは陸軍の航空戦力は戦略爆撃に投入されるべきだという立場でしたが、陸軍は地上部隊の支援に航空戦力を使う気であり戦略爆撃の計画立案は出来そうもなかったのです。ところが思わぬ幸運が向こうからやってくる事になるのでした。

■ハロルド・L・ジョージ(Harold Lee George)。
後で述べるように戦略爆撃計画を完成させた後は全世界に広がる輸送機の航路開発に活躍、
アメリカの兵站維持に多大な貢献をした。
最終的には中将で退役、退役後は“あの”ヒューズ社に天下りするんですが、
その辺りはまたいずれ少し触れる事になるでしょう。

(アメリカ陸軍のサイトから著作権の縛りの無い公有(Public domain)画像を引用)



アメリカ参戦の十一ヶ月前、1941年1月29日から3月27日にかけ、ワシントンDCに英米軍の責任者たちが集まり、秘密会議が続けられました。これがいわゆるABC-1会議で、アメリカがヨーロッパ戦線へ参戦することを前提に、英米間でその基本戦略が確認されています。
とりあえずヨーロッパ本土を席巻しつつあったドイツをいかに叩くか、それにはまずイタリアをやっちまえ、といった結論となり、あとは中東とアフリカもなんとかしなきゃ、という話になってます。ちなみに日本に関してはとりあえず放っておけ、ドイツが片付いてからチャチャっとやっちゃおうというレベルの扱いになってました…。
この会議の結果を受け、アメリカが独自に作成に入った参戦計画が、レインボープランと呼ばれるもので、陸海両軍の統合会議(Joint Board)の了承を受けて最終的にまとめられたのがレインボープランNo.5でした。これが1941年5月になってからルーズベルト大統領によって正式にアメリカの戦略として承認されます。当然、この段階では戦略爆撃は全く計画に入ってませんでした。

その直後、1941年6月22日に始まったドイツの対ソ連侵攻戦争、バルバロッサ作戦によりルーズベルトはアメリカ参戦の決意を固め、戦争省と海軍省に、レインボープランの実現に必要な資材、兵員、時間などなどの見積もりをせよ、と命令を出します。これが7月9日の事でした。が、ここでルーズベルトの短気が爆発、「一ヶ月で見積もりを出せ」と無茶な要望を出します。この時間制限が、思わぬ副産物を生むのです。先に見たように、ジョージが航空戦計画局(AWPD)を正式に立ち上げたのがその前日、7月8日ですから、まさに最高のタイミングでした。

それから約一か月経ってから陸軍航空部門の責任者アーノルド将軍からジョージは突然呼び出されます。これが8月4日の事でルーズベルトが指定した兵力見積もりの締め切り、つまり8月9日まであと5日、120時間前のことでした。さて、アーノルドに呼び出されたジョージは驚くべき指令を受け取ります。“君の部署で対ドイツ戦に向けた航空作戦を立案し、そのために陸軍航空軍が必要とする機材、物資、兵員を見積もれ”と言われたのです。それはやりたい放題の自主計画立案が可能になった事を意味します。すなわち戦略爆撃を基本方針としてしまるのです。この突然の吉報にジョージは狂喜します。なんでそんな事になったのかといえば、陸軍の戦争計画部の読みの甘さが原因でした。

すでに述べたように彼が立ち上げた航空戦計画部は残念ながら、独立性の高い組織ではありませんでした。
航空軍が陸軍の内部組織であったように、彼の組織も、陸軍の戦争計画部(War plan division)の下部組織という扱いです。なのでルーズベルトの指令は、ジョージの所に直接は来ず、最初は陸軍戦争計画部に行き、そこであらゆる作戦に必要な物資と兵器の見積もりが始まっていたのです。当然、ジョージの航空作戦部門は蚊帳の外に置かれていました。
ところが陸軍の戦争計画部が、ルーズベルトの命令によって実際の作戦計画の見積もり作業を始めると予想以上に多くの要素が作業にからんでいる事が判明してきます。そもそもキチンと戦争全般の進行計画を立てなくては、何がどれだけ必要なのかすら全くわからないのです。あのルーズベルト相手に、後から実はこれも必要でした、というのは絶対認められないですから慎重にならざるを得ません。
なので、陸軍の戦争計画部は、大陸反抗戦、後のノルマンディー上陸戦にあたる作戦から、その後のベルリン突入戦(実際はアメリカ軍はベルリンに向かわなかったが)まで、キッチリと作戦をたてる必要に迫られます。これは膨大な作業を絶望的に短い期間、わずか1か月でやらねばならない事を意味します。

このためとても航空戦まで手が回らん、と早い段階で気づいてはいたようです。ところが航空兵力の管理が自分たちの手から離れるのを恐れたためか、最終的に航空作戦の見積もりを断念したのは実に8月に入ってからとなりました。で、この段階でもう無理、という報告を受けた陸軍戦争計画部のボスはあまりの時間の無さに衝撃を受けます。どうしようもないじゃん、と。そこで航空作戦計画の立案と必要な兵力の見積もり作業をジョージの部門に丸投げしてしまったのです。本来なら悪質な責任放棄ですが、陸軍戦争計画部にとって幸運で、そして不幸なことに、相手のジョージは有能だったのでした。この話を受けた彼は最初から戦略爆撃以外にやる気は無く、陸軍が期待していた地上戦力への支援という戦術をほぼ無視して独自に計画を立て始めます。これによってアメリカの戦略爆撃に向けた歯車が一気に動き出す事になるのです。

まず彼は、すぐさま自分たちの戦略爆撃理論を作戦計画に採用します。さっそくそれにあわせた見積もりを彼の部署の3人全員で取り組み始めました(後に増員されるが当初は3人しか部員が居なかった)。
この時、ドイツに対する爆撃目標の選択では部員の一人であるハンセル(Haywood Shepherd Hansell, Jr.)が当時イギリスが持っていたドイツの工業情報を手に入れて帰国したばかりだった、という幸運に恵まれます。ちなみにハンセルは後にこの精密爆撃理論にのっとって対日戦略爆撃のB-29部隊の指揮を採るのですが、例のアーノルドの心変わりによって失意の内にその地位を去る事になるのです。そして彼の後を継いだのが、あの悪名高きカーチス ルメイとなり、日本は無差別都市爆撃の標的とされる事になります。
ついでにこの記事に関する資料の多くは、ハンセルが残した手記によるもので、個人的に感謝したいと思います( The Strategic Air War Against Germany and Japan など複数の資料を残してる)。

話を戻しましょう。この作戦立案時、ハンセルが持ち帰ったドイツの工業情報の中に石油関連の資料だけが無かったため、彼らはさらに情報をかき集めてドイツ国内の27の石油関連施設を突き止めました。そして石油の運搬にも運河の水運が絡んでることを発見、その破壊も計画に盛り込みます。こうしてドイツの破壊目標、産業の“中枢”に石油産業とその輸送網(交通網)が加えられる結果となりました。
これにより戦争の末期にはドイツの石油、ガソリンをほぼ枯渇させるのに成功し1944年後半から、ドイツ空軍は飛ぶのもままならん、という状況に追い込まれます。こうなると、なんぼ戦闘機の生産が維持されても全く意味がなくなるわけで、これがドイツの敗戦をほぼ決定付けました。

ちなみにその後、窒素生産工場もターゲットに選択されます。その製造のほとんどを少数の工場で行っていたのが発見されたためで、これを徹底的に叩きに行くのです。窒素がなんで、と思うかも知れませんが、窒素は火薬の原材料です。これを科学的に工業化するのに初めて成功したのが実はドイツで、これがかつて、第一次世界大戦の遠因の一つとなりました。そして、この爆撃によって、ドイツは弾薬にすら不足する事態に直面、さらに窒素は農業用化学肥料の原材料でもあるので、食糧生産までがピンチとなるのです。窒素関連施設の爆撃、破壊は、産業網構造理論の顕著な成功例の一つでしょう。
ちなみに逆の失敗例として工業中枢へのいくつかの爆撃がありました。航空機生産工場への爆撃はドイツ側の疎開対応などで効果が薄く、さらに製鉄所、そしてシュバインフルト周辺の少数の工場に生産が集中していた兵器用ボールベアリング工場も後に目標中枢部に選ばれるのですが、これもドイツ側の復旧作業とアメリカ側の中途半端な兵力集中などにより爆撃成果はイマイチに終わってしまいます。

ちなみに連合国側では単純な目標選択の失敗と考えていたシュバインフルトのボールベアリング工場への爆撃ですが、ドイツの軍需大臣シュペーアは爆撃機の集中と反復爆撃の回数が少なかったので救われた(工場の復旧に8週間かかるので繰り返し爆撃を受けたら打つ手が無かった)、そうでなければ4か月後に全てのドイツ軍需産業は停止していただろう、と述べてます。
実際、爆撃からの回復には連合国側が考えた以上に時間がかかっており、それまでは不良品を含めた軍の貯蔵品でまかなっていたとの事。すなわち着目点としては間違っておらず、中途半端な戦力投入が失敗の原因だったことを示唆しており、この辺りも戦略爆撃理論の反省点かと思われます。
ちなみにシュペーアは戦後、戦略爆撃なんて何も理解してないイギリス空軍の人間(ハリスとかだな)と話をして、連中の戦略爆撃はお粗末だとの結論を得ていますが、それは話す相手を間違えてます(笑)。イギリス人は最後まで夜間爆撃以外の戦略爆撃理論をもってませんでしたから。
ちなみにこのボールベアリング工場の爆撃を受けてシュペーアはアメリカは少数の工業中枢の破壊によってドイツの工業全体の息の根を止める気ではないか、と極めて正確に敵の戦略を分析してるのですが、軍人ではない彼のその分析が活かされる事は最後まで無かったのです。

さて、話を戻しましょう。
どんなにがんばっても残り5日では具体的なドイツ工業施設の中枢部地区の選定、爆撃目標の決定には時間が足りない、と思われました。ところがここから、予想外の幸運が重なり始める事になります。最初は、締め切りの延期でした。戦艦HMSプリンス オブ ウェルズに乗ったチャーチルがルーズベルト大統領との会談のため、カナダのニュー ファンドランド島に8月9日前後に到着する事になり、ルーズベルトと軍の上層部が全員、これ向かう事になったのです。となれば8月9日の締め切り段階までに見積もりが完成しても誰もチェックできません。このため軍内部での締め切りがまず2日延期され8月11日となりました。さらに会談は13日まで続いてしまったため、結果的に4日ほど締め切りが延びたのでした(ちなみにこの時の会談で、大西洋憲章が調印されている)。
さらに口うるさいタイプの指揮官だった航空軍のボス、アーノルドもルーズベルト大統領に同行しジョージたちの作業中、完全にワシントンDCから不在になってしまったのもラッキーでした。ジョージらは、これを利用して、自分たちが長年温めていた作戦を、誰にも遠慮せず、ちゃっかり採用してしまうのです(笑)。アーノルドは後の行動からわかるように、戦略爆撃についてそれほど進んだ考えを持ってませんでしたから、その妨害が入らなかった事は彼らにとっては幸いだったでしょう。

とりあえず戦略爆撃の目標が決まると、彼らはこれらの作戦に必要な膨大な数の戦略爆撃機を必要兵力の要求に盛り込む事になります。後にドイツと日本を壊滅に追いやる爆撃機の大量生産の要求であり、この段階までB-17が500機程度しか無かったアメリカ陸軍航空軍はこの要求によって初めて本格的な戦略空軍への脱皮がはかられるのです。この辺りの見積もりの数字については前ページに乗せた通りで、最終的に万単位の機体を投入するとは彼らも思ってはいなかったようです。

それでもこのAWPD-1計画の立案には締め切り最終日の朝まで作業を続けるハメになり、結局、十分な資料の印刷も間に合わない状態でアーノルドら陸軍航空軍の上層部相手に説明会を開き承認がなされます。が、ここまでは良いとしても最終的には陸軍の戦争計画部に提出するわけですから、そこでのチェックを通る必要があります。彼らのプランはあくまで陸軍の作戦見積もりの一部に過ぎないわけです。ところが、ジョージたちの計画&見積もりは完全に戦略爆撃に注力しており、陸軍の戦争計画部の戦略方針を逸脱してます。普通に考えれば、拒否される可能性が高いわけです。そうなると、戦略爆撃はまた、はかない夢に終わってしまいます。
残念ながら、ジョージもこの点に明確な対策を持っていませんでした。とにかく、やるだけのことはやろう、と決意して、彼らはその書類を持って陸軍戦争計画部に向かったようです。もし審査を通らなかったら、彼らの努力もアイデアも全て水の泡となる運命でした。
ところがその日は全軍の作戦提出の締め切り日でもあり陸軍戦争計画部では自分たちの計画書のまとめに追われてる状態でした。そんなところにジョージたち航空軍の作戦計画と見積もり書の包みが持ち込まれたのです。
すると、どうなるか。
これを受け取った陸軍戦争計画部の担当者は、それに“航空軍分”とういう札をつけ、内容の確認もせず、即座に自分たちの計画書の袋に放り込んでしまいます。そしてそのまま、関係者分の複写を取るため、政府の印刷局に送ってしまったのでした。これはジョージ達にも意外な結末だったようですが、とりあえずこの瞬間にアメリカの戦略爆撃が成立した、と考えていいでしょう。
繰り返しになりますが、アメリカの対ドイツ戦略爆撃がどれだけ有効だったのかを理解するには、このジョージの打ち立てた戦略爆撃理論と、後にアーノルドが決断、キチガイ将軍カーチス ルメイが実行することになる無差別都市爆撃とをキチンと区別する必要があるのに注意してください。後者は完全に無意味でしたが、前者の破壊力は極めて強力でした。この点は戦後にまとめられた米国戦略爆撃調査報告書(United States Strategic Bombing Survey Reports)のヨーロッパ編の最後に書かれている重要参考点の5番、6番を見るとわかりやすいでしょう。ここに転載しておきます。

■米国戦略爆撃調査報告書 ヨーロッパ戦線編 要約版より抜粋■
●重要参考点

〜4番までは省略

■5 爆撃目標を慎重に検討選択する重要性は、ドイツ側の経験則からして極めて明白である。ドイツはその兵器工場や都市部への攻撃よりも、産業基盤(石油、科学、製鉄、動力、輸送網)への攻撃に憂慮することになった。
もっとも深刻な打撃は、他の産業に必要とされる工場施設への攻撃、そして破壊だった。ドイツは基幹産業の防衛を重視することの方が、兵器などを生産する工場の防衛を考えるよりも明らかに重要である、という点を発見する事になったのである。
(*筆者注:石油産業や窒素工場への爆撃を指している)

■6 ドイツの経験が示しているのは、どのような目標選択であれ、一度の爆撃で重要工業施設を永続的に使用不能することはできないという事である。執拗なまでの反復爆撃が必要となる。

といった感じですね。これらは全てジョージの爆撃理論にのっとって行われたものでした。

さて世界初の現実的な戦略爆撃理論を打ち立てたジョージですが、実際の戦略爆撃が始まる前に航空戦計画部の責任者の地位を去り、戦争後半は全く別の世界、陸軍航空輸送部隊の責任者の地位にありました。つまり現実の戦略爆撃には全く関係してません。この点、本人は不満だったと思いますが、なにせ有能な人ですから、こちらでも見事な成果をあげてしまい、今でも本国アメリカではこちらの航空輸送網の建設による業績で知られる軍人となっています。
1942年に入ってアメリカの参戦が本格化すると陸軍航空部隊の中で戦闘機や爆撃機を戦場まで輸送するだけの組織だった空輸司令部(Ferrying Command)を改革し、世界中の戦場に必要な物資を届ける輸送機による一大空輸ネットワークを構築する事が決まりました。ところが3月にその責任者になる予定だった人物が病気で急死、アーノルドは、この困難な任務の責任者に当時まだ大佐だったジョージを抜擢します(任命後に少将にまで昇進)。
本人はいやだったらしいのですが、なにせ有能でしたから航空輸送司令部(Air Transport Command/ATC)と名前を変えた組織は、あれよあれよという間に南極以外の全大陸、それこそ南アフリカからグリーンランド、さらに中国に至る巨大な航空輸送ネットワークを構築、運用してゆきます。これがヨーロッパ方面のアメリカ陸軍の戦いを支える、巨大な原動力の一つとなって行くのです。ちなみに42年6月、つまりミッドウェイ海戦の月には既にアメリカ発でブラジルから西アフリカ、サウジアラビア、そしてインドを横断して中国の昆明に至る空輸ルートが完成してますから、仕事速いな、という他ありません。

その後、その配下に3000機以上の輸送機を持ち、3万人近い兵員で運用されたこの組織(ATC)をジョージは見事に指揮して、ドイツのハイテンションなチョビ髭を敗北まで追い詰めるのに、大きな役割を果たしました。これだけのネットワークを短期間に組上げ、運用したその手腕は見事という他ありませぬ。ただし当時多かった民間人から来た専門職の補佐官がここにもいて、アメリカン航空の元社長、スミス少将が彼の補佐に当たっており、その力も大きかったと思われます。
結局、ジョージは以後、退役するまで二度と戦略爆撃に関わる事が無かったため、アメリカ本国でも忘れられた戦略家になってしまったのです。ちなみに空軍退役後、彼が天下りで行った先は、あの変態大富豪、ハワード・ヒューズがオーナーのヒューズ・エアクラフト社でした。戦後のヒューズ社は機体の電子装備で大きな役割を果たし、彼もその一端を担っていたようですが、後に経営陣と対立、退社してしまう事になります。

■AWPD-1を巡る騒動

ジョージ達が提出した航空作戦計画、AWPD-1は、真珠湾攻撃直前の時期に、アメリカ本国でちょっとした騒ぎを引き起こしています。この点も少し触れておきましょう。これによってドイツにアメリカの戦略爆撃計画を知らせてしまう結果となったからです。ただしその計画内容を知ったところでどうしようもなく、あまりに膨大な爆撃機の生産数計画にドイツ空軍は呆然となるのですが…。ちなみに日本の軍部はこの騒動において最後まで蚊帳の外、というか信じられない事に終戦に至るまでそんな事を知らなかった可能性が高いです…

まず1941年12月4日にシカゴの地方新聞、シカゴ・トリビューン紙がその紙面で、AWPD-1計画の全貌をほぼ完全な形でスクープし、その内容の仔細を掲載してしまう事態が発生します。ちなみにワシントン・へラルド紙も同じ内容の報道をしてるのですが、どうもこちらは一日遅れだったようです。
これを読んだアメリカ市民、特に当時の世論の主流だった参戦反対派の人々は驚きます。その戦略爆撃プランの重要性は全く理解できなかったものの、ジョージたちが提出していた必要な兵力、戦略爆撃機の生産見積もりは十分理解できました。後に実際にドイツと日本相手に送り込まれる事になる膨大な数の戦略爆撃機と兵員がそこでは要求されており、それ以外の必要機材も膨大でした。これだけの生産と軍隊の維持を行うには、アメリカの工業全体が戦争に協力する必要がある、というのはその数字を見た多くの人がすぐに理解できたのです。



1941年12月4日(当たり前だがアメリカ時間)のシカゴトリビューン紙。
トップにF.D.R.(フランクリン ルーズベルト)の戦争計画、とタイトルが躍る。
これがAWPD-1のすっぱ抜き記事だった。




この生産計画をルーズベルトはアメリカの経済を立て直すチャンスと見ていたのですが、そのお金はどこから来るのかといえば国民からであり、すなわち大幅な増税しかありません(実際には増税では追いつかず、さらに大量の戦時国債が発行されることになる)。
当時、まだ世界恐慌以来の不景気からアメリカは抜け切っておらず、この上、重税で苦しめられてたまるか、と誰もが思ってしまったのです。この国民感情を参戦反対派の国家議員たちが、あおりまくり、わずか数日でアメリカ世論はAWPD-1計画への反発から反戦論一色に埋まりつつありました。もし、このままだったなら、アメリカは第二次大戦に参戦できず後の歴史は大きく変わったかもしれません。
が、世の中はうまくできたもので、それからわずか三日後の12月7日の早朝に日本海軍が真珠湾のアメリカ太平洋艦隊へ不意打ちの奇襲攻撃をかけて来るのです。当然、一夜にして、アメリカの反戦気分は吹き飛ばされてしまいます。反戦派にとっては、まさに三日天下だったわけであり、ルーズベルト大統領にとっては棚からボタモチとショートケーキと栗ヨウカンがまとめて落ちてきた、という状態でした。政治的にかなり厳しい立場に追い込まれていた彼は、この真珠湾攻撃によって一気に劣勢を挽回してしまうのです。

アメリカ人はフェア(fair)という価値観を大きく評価します。アメリカ国民にとって“フェアではない(卑怯だ)”というのは最悪な評価であり日本の不意打ち先制攻撃(宣戦布告の連絡ミスではあったのだが)はまさに“フェアではない”行為だったのです。よって6日の夜まであれほどアメリカ政府の戦争計画を非難していた世論が、7日の朝には、“日本とその同盟国のドイツをギタギタのケチョンケチョンにしちまえ!”という論調一色に埋め尽くされる事になるのでした。
これによって、アメリカ国内におけるAWPD-1計画への非難はウヤムヤになってしまい、以後、その完成に向けてアメリカ陸軍航空軍はひた走る事になります。ただし当初、アメリカ参戦を1942年半ば以降に予定してたので計画の大幅な前倒しと変更が必要となり、ジョージたちが急遽、その最初の変更を行いました。これが再び承認されアメリカの戦略爆撃が動き出す事になるのです。

とりあえず日本の真珠湾攻撃によってアメリカ国内ではウヤムヤになったAWPD-1計画の内容ですが、これをウヤムヤにできない人たちが居ました。そこで名指してターゲットにされていたナチスドイツの皆さんです。戦前にはナチスのファンが多かったシカゴの新聞がスクープしたということもあり、かなり早い段階でこの情報はドイツ本国に送られています。
すでにソ連との泥沼の戦闘に舞いこまれつつあったドイツ空軍での反応は、こんな数の敵をどうするんだ、とういうのと、いくらアメリカでもこんな膨大な兵器を生産して戦争に投入するなんて不可能だからハッタリじゃないのか、という両極端なものに分かれたようです。
それと同時にアメリカ国内で反戦の機運が高まってる、ということも知ってたらしく、当初はそれほど懸念して無かったと見られます。ところがその直後に真珠湾で日本が頼みもしないのに全力でアメリカの横面を張り倒してしまい、思いもよらぬ形でドイツはアメリカの参戦を迎える事になるのでした。
が、とにかくアメリカがどういう戦略でヨーロッパへやって来るかは判ったわけです。なのでこの段階からドイツはその主要部への防空網を大急ぎで構築して行くことになります。結局、彼らがとても信じられなかった数字の物量をホントにアメリカは生産してしまい、さらに極めて効果的な戦略爆撃が行われたことで、ドイツは破れ去る事になるのですが、それでもドイツの防空網はよくやった、と言っていいでしょう。この辺りは後にレーダーと対空砲の話としてまた見て行きます。

ちなみに、この時のAWPD-1計画情報の漏洩の元はいくかの説があります。ジョージは、大統領補佐官にコピーを渡したところ彼がこれを自宅に持ち帰ってしまったので、どこかでこれを写真に撮られたのでは、という説を述べています。
もう一つは当時、反戦派の代表格だった上院議員、バートン・ウィラー(Burton K. Wheeler)がコピーを入手し、意図的に新聞記者に渡した、というもの。ただしこれは後に通報を受けたFBIが調査して彼はシロだ、と認定していますから虚報だったようです。
ちなみに後年になってウィラーは、あれはルーズベルトの陰謀だった、と言ってますが、これが彼をハメるための罠ということなのか、情報漏えいそのものがルーズベルトの仕業と言う事なのかはわからず。真相は闇の中、というところでしょう。
ちなみに繰り返しになりますが、開戦前に新聞に載ったわけですから駐在武官を含むアメリカ在住の日本大使館の皆さんもこの記事は見てるはずなんですが、この件に関する日本側の対応の記述を、私は全く見たことがありません。どうも最後まで知らなかった、あるいは気にしなかった、が事実のようですが…


といった感じで今回はここまで。次回は後にアメリカ空軍を牛耳る事になる戦略爆撃部門、SACの登場を見て行きます。


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