■第一章 戦略空軍への道




■戦略爆撃空軍として頂点にあった第二次大戦後半のアメリカ陸軍航空軍(戦後に独立して空軍に)では
B-17のような大型戦略爆撃機がその主力機でした。
これによってドイツ本国を叩き直接戦争を終結させてやる、という野望があったからです。
このためP-51のような傑作戦闘機でも軍の主力機ではなく、
戦略爆撃機を護衛するための道具に過ぎません。
アメリカにおいては、ベトナム戦争が終わるまでその主力機は常に重爆撃機だったのです。
それはなぜか、そしてなんでそんな事になってしまったのか、を最初に見て行きましょう。



第一次世界大戦の段階において、アメリカの航空戦力は田舎空軍レベルに過ぎませんでした。極めてお粗末だったとすら言えます。
ところが次の第二次世界大戦においてアメリカは軍用機の開発でも軍の組織としても世界の最先端に追いつき、さらにそれを抜き去ってしまいます。以後、朝鮮戦争後からベトナム戦争までの迷走があったとはいえ、21世紀に入っても航空戦力という点においてその世界最強の地位と最新兵器を保持し続けています。とりあえずその流れを時間に沿って追ってみましょう。

アメリカ空軍は、第二次大戦が終わるまでは陸軍の一部でした。1909年に陸軍の信号部隊が連絡、偵察用にライト兄弟から飛行機を買い付けたのが始まりで、第一次大戦から第二次大戦終結まで陸軍の一部として運用されていました。イギリス、ドイツ、フランスといったヨーロッパの主要国が第二次大戦前から空軍を独立させていたこともあり、航空関係者にとっては、これが不満でした。この空軍独立の願望はアメリカ陸軍の航空部隊にとって一種の宿願となってゆきます。そのためには予算編成の権限を持つアメリカ議会に対し空軍の優秀性を納得させる必要が出てきます。
ただしこの点において、アメリカ陸軍の航空隊は不利で、デメリットの否定ですら困難でした。理由は単純で西半球、地球の西半分には主要な大陸はアメリカ大陸しかなく、そこでまともな航空戦力を持っているのはアメリカ合衆国だけだったのです。当時の航空機の航続距離なんてたかが知れてますし、まともな空中給油システムなんかもないですから航続距離の限界は低いものでした。となるとアメリカに対し敵国の航空機が飛んでくることなんて、まずあり得ないのです。同様にこちらから航空機で攻めて行ける距離に敵国家なんてありそうもないのです。すなわちアメリカには航空兵力は必要ない、という事になります。この問題は陸軍の航空勢力にとってなかなかやっかいでした。

そういった状況の中、アメリカ陸軍内で空軍独立論の先頭に立っていたのがウィリアム“ビリー”ミッチェルでした。第一次世界大戦で陸軍航空部隊の兵員としてヨーロッパに渡った彼は戦後、アメリカでも空軍は独立すべきだ、と主張し始めたのです。

■“ビリー”ミッチェル(William Lendrum Mitchell 英語圏でウィリアムの愛称はビリーなので“ビリー” ミッチェル)。
1879年生まれで最終的には准将の地位まで登り、その後1926年に陸軍を去る事になります。
(アメリカ陸軍のサイトから著作権の縛りの無い公有(Public domain)画像を引用)




ミッチェルはまずそもそもアメリカに航空戦力は必要か、という問題に回答を出す必要を迫られます。そこで彼は強力な爆弾を積んだ航空機によって海軍のあらゆる兵器、戦艦でも沈める事ができるのだから、航空戦力は海軍の代わりになる、しかも戦艦などの建造費に比べれば航空機は極めて安価だ、と訴え始めます。当時の爆撃機は戦艦の主砲弾に匹敵する1トンの爆弾を既に運用できましたし、遠くからドカンと撃つだけの戦艦主砲と違って相手のすぐ上まで飛んで行って爆弾を落とせるので命中率の向上も期待できました。よって、この議論は一定の説得力を持っていたのです。ちなみにこの空軍による海軍不要論は第二次大戦後まで続いたため、両者の根深い対立の一因になってます。
その後1922年に、ミッチェルは第一次大戦の戦利品としてアメリカが受け取っていたドイツの戦艦相手に爆撃実験を行ってこれを沈めてしまう事に成功、航空戦力に一定の価値を認めさせることに成功します。ただし、この時の実験は、無人艦で動かない標的であり、さらに対空砲火も、そして被弾後の防水作業も無かったので、実戦とはだいぶ条件が異なっていました。よって完全には海軍の代わりを務められる、と認められたわけではありませんでした。そもそも当時の航空機の航続距離ではせいぜい沿岸300q前後までしか進出できず、しかも天候が悪化したら何もできないのです。このため一定の存在価値は認められたもの、ミッチェルが望むような独立した軍として存在する、という所までは行きませんでした。戦艦を沈めただけではだめだったのです。



■ミッチェルが対戦艦爆撃実験に使った機体、マーティンMB-2爆撃機。
(ただし写真はアメリカ空軍博物館で展示されてるレプリカ)

戦艦爆撃実験の切っ掛けは1920年にミッチェルが海軍にケンカを売った事でした。
もはや海軍は不要だ、なぜならアメリカに侵攻しようとするあらゆる軍艦は航空機で撃退できる、
戦艦1隻の予算で1000機の爆撃機が造れるから、これでアメリカの防衛は完成する、と主張したのです。
これは暴論というか愚論でありました。
当時、560マイル、900q以下(つまり片道450q)の航続距離しか持たない航空機では
とてもその任務には使えないからです。
世界中からやって来るアメリカの海の通商を守るのに、沿岸警備規模の航空機だけではどうしようもありません。
当然、天候の影響も大きく、空軍が海軍の代わりになるのは無理があります。

ところが海軍もまた馬鹿で(笑)、この論点でミッチェルを迎え撃たず、
いや、航空機で戦艦は絶対に沈められない、という論点で反論してしまいます。
海軍はそれを立証する、として1921年2月にドレッドノート世代以前の旧式戦艦
USS インディアナを爆撃する実験を行いました。
実験後、航空攻撃で沈める事が出来なかった、
という実験結果報告が発表され、海軍は自説が正しかったとするのです。
ところが実はこの時使われた爆弾は実弾ではなく、砂の入った演習用爆弾だったことが、
後に新聞にすっぱ抜かれてしまいます。

これで面目を失った海軍はミッチェルの戦艦爆撃実験、いわゆるB計画の提案を受けざるを得なくなり、
1921年7月にドイツから戦争賠償として受け取っていた戦艦、
オストフィースラントを使った爆撃試験を行うことになったわけです。
それに先立って同じようにドイツから譲り受けていた駆逐艦、軽巡洋艦を使った実験が行われたのですが、
両者ともあっさり沈められてしまい、ミッチェルは自分の主張の正しさに自信を深めます。

その後7月20日、21日に対戦艦の実験が行われたのですが、初日は荒天で上手く行かず延期、
翌日の実験では小型の1100ポンド爆弾(約500s)を搭載した爆撃が最初に行われました。
これが3発が命中したところで一度実験は中断され、被害状況の視察が実施されます。
まだ沈没の恐れなしと判定が出て実験は続行、いよいよ2000ポンド(約900s爆弾)の投下となりました。
攻撃は6機のMB-2で行われ、全機が爆弾を投下した結果、4発が至近弾となります。
直撃は一発も無かったとする資料が多いですが、爆撃後に黒い煙しか出てない写真が残っており
直撃弾が少なくとも1発はあったと見られます。
そして最終的に爆撃から22分後、オストフィースラントは沈没してしまいました。
(沈没直前になぜか待機していたハンドレーページ機がトドメの1発を投下したらしいが理由は不明)

こうして当時は限りなく不沈に近いと思われていたドレッドノート世代以降の戦艦を
航空攻撃だけで沈めてしまい、世界に衝撃を与えたのでした。
ただし、のちに海軍が主張したように、停止した艦であり、回避運動をしてない、
対空砲火が無かった、さらに損害を受けた後、無人なので浸水防止の処置が艦内で取られてない、
といった点も事実で、水平爆撃で行動中の戦艦を沈めるのは、現実にはほぼ無理でした。
実際、水平爆撃で戦艦相手に命中弾を出した例は第二次大戦中のマレー沖海戦で
日本海軍機が成功したくらいしかなく、事実上、不可能に近いものです。
(後に誘導爆弾を使って戦艦ローマを沈めたドイツ空軍は反則とする)

が、それでも航空爆弾だけで戦艦が沈められたのは事実でした。
これは後に急降下爆撃機が実用段階に入り、
さらに雷撃機が加わる事でより現実的な脅威になって行きます。
その結果が太平洋戦争の空母の活躍であり、その事を最初に証明したのが、
皮肉にも戦略爆撃を目指して海軍不要論を唱えていたアメリカ陸軍だった、という事になります。


その後、第一次大戦の経験もあり陸上航空戦力の維持は認められましたが、極めて小規模なものとなりました。これをミッチェル率いる空軍独立派は不満に思い、議会を説得する次の手を模索し始めます。その結果、航空戦力のもう一つのメリットとして、戦略爆撃によって敵国の主要な産業、軍事施設を破壊し、その交戦能力と戦意を一気に奪って戦争を勝利に導く、という新たな航空戦、戦略空軍への道を主張し始めるのです。
ただしその途中、1925年9月に飛行船シェナンドー号の遭難事故が発生、この飛行を強行させた軍上層部の責任を痛烈にミッチェルが批判する事件が起こります。これを理由に彼は軍法会議にかけられて有罪判決を受け、この結果、翌年には陸軍を去る事になるのです。これによって空軍独立派はその有力な指導者を失うことになってしまいます。
が、それでも陸軍内部にはミッチェルの薫陶を受けた人物が多く残り、第二次大戦における戦略爆撃理論の完成とその実行、そして戦後の空軍独立へと導いて行く事になります。ちなみにその1925年に彼の代表作「航空防衛(Winged Defense)」が出版されました。全米でも注目されたミッチェルの軍法会議期間中に出版され、その話題性十分だったのにも関わらずわずか五千部以下しか売れなかったと言われており、残念ながら彼の世論への影響力は限られたものだったようです。

それでも空軍独立派はこの戦略空軍理論に傾倒して行きます。
当時、第一次大戦の塹壕戦の悲惨な経験から(陸上戦の兵士の戦死数だけを比較するなら第二次大戦より多いのだ)血まみれの陸上戦を避けられる、という航空戦争の利点がヨーロッパでは広く語られるようになっていました。特にイタリアのジュリオ・ドゥーエは戦略爆撃による新たな戦争の形を強く主張し、多くの航空関係者に強い影響を与えていました。ミッチェルはドゥーエに会って話したこともあったため、その主張から強い影響を受け、これこそが空軍の究極の姿であり、それによってアメリカの航空戦力も空軍という独立した軍隊になれると考えたようです。

ドゥーエは何冊もの本を書いて、しかも何度も書き直してるので、その理論を厳密に把握するのは結構面倒なのですが、その要点は極めて単純です。
従来の戦争は敵の待ち構える戦線を乗り越えて敵国に攻め込み、その戦争継続意思を放棄させ、降伏に追い込むのが目的でした。当然敵も必死で防いで来ますから、血みどろの戦いが待っている事になります。対して航空戦は敵のあらゆる防護施設、要塞も塹壕もひょいと飛び越えて敵の中枢部に至ることができてしまいます。なのでその工業地帯、人口密集地帯、交通施設などを開戦直後に速攻で爆撃すれば、あっという間に敵の国民生活、さらに産業の基盤を破壊できるのです。そうなると敵国はもはや戦争継続は不可能な状況に追い込まれ、当然降伏するしかない、といったところがドゥーエの主張です。

ここでドゥーエは相手の戦争継続意思の破壊、もう戦争はいやだと敵に思わせて戦争終了に追い込めると主張しています。これは第一次大戦時のドイツとロシアの終戦状況、すなわち戦争に嫌気がさした国内の内乱状態、ロシア革命とドイツの十一月革命から休戦と降伏に追い込まれた事実が、その着想に影響してると思われます。ところが残念な事に、以後、国内の厭戦気分を理由に降伏したのは第二次大戦時のイタリア、すなわちドゥーエの地元くらいなもので、他の国ではそんな事態は最後まで発生しませんでした。そしてイタリアの場合も、ローマのすぐそばまで連合軍が攻め込んでくるまで、つまり陸戦で追い込まれるまでそういった事態にはなりませんでした。
よって空爆で相手の国民を厭戦気分に追い込んでも、現実にはなかなか戦争は終わらないのでした。実際、次の第二次大戦の時のドイツは首都ベルリンが陥落し、ヒットラーが自殺するまで戦争をやめませんでした。この点を見逃したのがドゥーエの理論の決定的な欠陥であり、このため単純にその影響を受けただけのイギリス、ドイツはともに第二次大戦では戦略爆撃だけで敵国を降伏に追い込むのに失敗してます。

ところが意外な事に未だ空軍が独立してないアメリカだけが例外となり戦略爆撃で戦争の行方を決定づけてしまいます。
制約の多かった対ドイツ爆撃では、ほぼ国家崩壊まで追い込みながらもベルリンがソ連に占領されるまで戦争は終わりませんでした。一方、日本は事実上、空襲だけで産業システムと国内輸送網を粉砕されてしまい、本土決戦はどうみても無理、という状況に追い込まれ、そこに原爆の投下が加わって降伏にまで追い込まれます(先に見た国民の厭戦気分による降伏では無いのに注意。ドゥーエの主張とは異なるのだ)。東京の近所まで陸上部隊が進出するまでもなく戦争は確かに終わってしまったのです。

さらに言えば降伏まで追い込むのには失敗したとはいえ、ドイツもアメリカの戦略爆撃で戦争継続能力を完全に奪われた状態に追い込まれており、これが地上戦の早期終結に大きく貢献しています。この点はそれを実感できたソ連のスターリンが後に戦略爆撃に強い興味を示すことからも伺えます。その結果、戦後、長年の夢であったアメリカ空軍の独立が達成されることになりました。ただし、この戦略爆撃の予想以上の成功が、アメリカ空軍を迷走させる事にもなるのですが、それはまた後で見ましょう。
まずはなぜアメリカだけが戦略爆撃を戦争の勝利に直結させることができたのかを見て行きます。それは知られざる天才の一人、ハロルド・ジョージが居たからなのだ、というところからこの話は本格的に動き始めるのです。



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