■第三章 全天候型戦闘機の迷走


■戦闘機の迷走その5 F-89の迷走と対空核ミサイル

最後に迷走に迷走を続け、最初に初飛行しながら、最後に本格運用に入ったノースロップ社のF-89の運用を確認して置きましょう。



ノースロップ F-89

1948年8月に初飛行、第一世代の全天候型迎撃機の中で最初に登場した機体なのに、その配備は最後となったのがF-89でした。

このため1950年代後半に至るまで運用が続けられた直線翼ジェット戦闘機であり、相手が高速爆撃機を投入してきたらどうする気だったのだろう、という感じの古臭さでした。さらにノースロップの設計陣はジェット機の高速性と、それによって生じる機体にかかるストレスを理解できておらず、悲惨というほかない事故を引き起こしてしまうのです。

ちなみにF-89は最初、機首に20mm機関砲4門を積んだ爆撃機の銃座のようなターレットを搭載する予定でした。おそらく、P-61のデザインを踏襲したのだと思いますが、さすがにジェット機でそれはどうか、となって、途中でF-94Aのような固定式20mm機関砲6門に置き換えられてます。ところが機体の配備に手間取ってる間に例のソ連の戦略爆撃機ショックが発生、この固定6門もさらにロケット弾&ミサイルに置き換えられることになるのです。設計、試作段階から実戦配備にかけ、ここまで主武装が変わった戦闘機もある意味、珍しいでしょう。

その後、最初の量産型のA型でいきなり機体にも火器管制装置(FCS)にも問題続出となり、わずか半年後、1951年3月までに11機だけ生産して製造打ち切りとなってしまいました。その11機も部隊配備というにはほど遠く、事実上の試作機に等しく1954年には全機退役となってます。
続いて登場したB型もエンジンに欠陥が見つかる、昇降舵(エレベーター)にフラッター(高速飛行時に振動し破損してしまう)が出ると問題続出で実用に耐えず、これも半年製造して1951年の9月に製造打ち切り。生産数は50機前後だと思われますが、正確な数字はわかりません。その結果、さらに改良されたC型が造られる事になり、B型の製造打ち切り直後の9月から生産が開始されました。わずか1年ちょっとの間に2回の改修、3つのタイプが生産されたわけで異常と言っていいでしょう。

そしてようやくC型から本格的な量産がスタート、部隊配備が始まり、翌1952年の1月には部隊での運用が開始されます。が、部隊配備が進むにつれて本格運用の前に見落とされていた致命的な欠陥が明らかになって行きます。
F-89の抱える構造的な欠陥、主翼の強度不足です。まずC型の生産開始から半年も経ってない、1952年の2月25日、最初の空中分解事故が発生。以後、9月22日までの間に次々と5機ものF-89Cが飛行中に主翼が吹き飛んで空中分解、墜落します。
8月30日には一般客が見守るエアショーでの事故もあり、悲惨という他ない状況になって行くのです。主翼の無い状態では凄まじい回転と落下速度で石のように堕ちて行きますから、そこからの脱出は不可能でした。こうなるともう、事実上の殺人機です。

が、すでにアメリカ空軍はルメイの時代に入りつつありました。組織を支配してるのは論理ではなく、狂気です。これだけの事故を起こしながら、空軍は9月までF-89を飛行停止にせず、いたずらに犠牲者を増やします。実は最初の事故の直後、3月の段階で、構造的な欠陥の恐れあり、という報告があり、空軍はノースロップ社にC型の製造停止命令を出したとされます。ところが既に配備されていたF-89Cは防衛上の必要性から飛行停止にせず、いたずらに犠牲者を増やし、ようやく9月に飛行停止命令が出ます。これはもう組織的な殺人に近いものがあるでしょう。
本来なら、これ以上こんな機体に関わる理由はないはずですが、なぜか空軍はノースロップの設計改修を受け入れ、この後D型としての製造を発注しています。ここら辺、メーカーと軍上層部の間になんらかの癒着があったと考えないと説明ができないような感じがしますねえ…。

そこまでして、やっとまともに運用できる状態となった最初の本格量産型、D型の配備が開始されたのは、初飛行から6年近くも経った1954年初頭となります。当時としてはかなりの時間だと思っていいでしょう。
そしてこの機体から機首部の20mm機関砲がようやく外され、ロケット弾が搭載されることになりました。生産途中から世界初の誘導ミサイル、ファルコンも搭載できるように改修され、世界初の空対空ミサイル戦闘機としての本格運用も始まります。

すでに後から出てきたF-94C、F-86D&Lは配備済み、それどころかその後継機F-102も初飛行済みで生産準備に入ってるという段階でした。よって完全に時代遅れの機体となってましたから、その対抗策として考えられたのが当時ヒューズ社が開発、実用段階に入りつつあった世界初の空対空誘導ミサイル、ファルコンの搭載だったのです。

これなら多少性能が落ちても、遠くからぶっ放すだけでなんとかなる、と思われたのでしょう。なので、D型の生産途中からその搭載が可能になり、既に生産されていた機体にも順次、搭載可能とする改修が行われます。F-89は最終的に空対空ミサイルの搭載能力をさらに強化したH型まで造られますが、さすがにもう時代遅れとなり、これにて新規開発は終了となりました。



世界初の誘導ミサイル AIM-4ファルコン。
同じファルコンでも、赤外線誘導式(写真左)とレーダー誘導式(右)がありました。ただしレーダー誘導と言ってもセミアクティブ式で、本体にレーダーは積んでません。この辺りはまた後で。
ちなみに誘導ミサイルと言ってもあくまで対爆撃機を想定したもので、戦闘機のような派手な機動を追尾するのは無理でした。

ちなみにファルコンミサイル、AIM4(旧称GAR)は例の寄生戦闘機などを生んだ迷走計画、“戦略核爆撃機の護衛兵器開発計画”の中で、爆撃機の自衛用兵器として開発がスタートした兵器でした。
よってあのズン胴戦闘機、ゴブリンの兄弟ともいえるのですが、こちらは健全な兵器の道を歩んだわけです。

その開発を受注したのが、例の変態オーナーの下でがんばっていたヒューズ社でした。ただし開発が進むと高速で動く戦闘機相手にはとても使えないことが明らかになるのですが、そこから逆転の発想で、むしろ戦闘機側で使った方がいいんじゃないか、相手が爆撃機ならそんなに動かないし、という事になったようです。

ついでにヒューズ社のスゴイところは誘導方法に最初からセミアクティブ・レーダーホーミング方式と、赤外線探知ホーミング方式を同時に採用した点でした(セミアクティブ方式ではレーダー波の受信装置のみ搭載、レーダー本体は母機の戦闘機に積む。母機のレーダー波の反射を探してミサイルは目標に向かうので受信装置だけでよく小型化、低価格化ができる。ただし当然、母機はミサイル命中まで目標をレーダーにとらえ続ける必要がある)。

このヒューズが造ったホーミング(誘導)装置の基礎は21世紀になっても基本的な部分において未だに有効です。これらが1950年代半ばから運用されていたというのは、なかなかスゴイと思います。ただし戦闘機の機動について行けないから直線飛行する戦略核爆撃機の迎撃用にされたものですから、ベトナム戦争において対戦闘機戦に投入された時は、さんざんな結果に終わることになります。これもアメリカ空軍の“戦略空軍化”が生んだ弊害の一つでしょう。そもそも、そういう用途には全く向かない兵器なのです。
なのでこの点も結局、海軍が開発した兵器、赤外線誘導ミサイルAIM-9サイドワインダーをもらい受けて空軍は乗り切る事になります。

さらにこの後、既にあるD型を改修したJ型という機体が登場します。これは対空兵器の極北である空対空“核ミサイル”ジーニー(Genie)を搭載できるように改修された機体です。この対空核ミサイルジーニー搭載可能なF-89Jは1957年初頭から運用されて始めます。
ちなみにこの段階だと、SAGEシステムの稼動が始まっており、そのネットワークと連携して運用されたという資料もあるのですがF-89でSAGEのデータリンク用のアンテナの付いた機体の写真を筆者は見たことが無く、この辺りはやや怪しいところがあります。


 
F-89の主翼下に積まれた対空核ミサイル、ジーニー。
敵の戦略核爆撃機を確実に全滅させる必要から、こういった狂った兵装も登場してくるわけです。
ちなみにこのミサイルは発射機の安全圏確保のため、10kmという当時としてはかなりの射程距離を持っていました。

弾頭はウラン235とプルトニウムを花火球のような球体に詰め込んだピット(PIT)と呼ばれる小型核弾頭で、これは巡行核ミサイル、つまり翼を持って自ら目的地まで飛行してゆくタイプの核ミサイルの弾頭などにも使われてます。弾頭のピットは、1.5キロトンクラスの破壊力ですから、広島型原爆の約1/10程度の規模と言う事になります。

ジーニーは1957年7月19日にF-89Jを使って高度約4600mで実射テストが行われ、一応、成功したとされますが、現在発表されてる写真を見る限りでは、かなり控えめの白煙が空中に浮いてるだけで、その効果については、どうにも判断がつけにくいところ。爆発はしてるけど、これでホントに敵の爆撃機を落とせるの、という気はしなくもないです。

ついでにこの時、地上に兵士を配置して、その人体への影響を測る、という人体実験もやったとされ、ホントにこの時期のアメリカ空軍は狂ってますね。なお爆発時の火球は半径300m以内の目標をほぼ破壊できた、とされますが、実際に飛んでる機体相手に撃墜実験をやったわけではないようで、このあたりの判断は微妙です。

ちなみにジーニーは無誘導なので、良く狙って撃ち相手の側まで行ったら(恐らくレーダーのデータをFCSが見る)母機からの無線指示で爆発させた、とされます。ただしなぜか時限信管も積んでいて、ここら辺の使い方はよくわかりません。これは母機が撃墜された場合の自爆用ですかね。

最後にF-89の兵器システムの変遷を見ておきましょう。その武装は付け焼刃の極北、といった印象があり、極めて場渡り的でした。ただその分、各時期の代表的な武装を積んでいたので、興味深いともいえます。この点で重要なのが例の火器管制装置(FCS)なのですがF-89の場合、よくわからない部分が結構あり一部推測を交えますので、この点はご容赦。

とりあえず1948年夏の試作コンペの段階ではまだFCSがヒューズ社で完成してなかったので搭載されてませんでした。その次の11機だけで終わったF-89のA型では、F-94A&B型に積まれていたのと同じ世界初のFCS、アナログコンピュータのヒューズ E-1を搭載します。
が、その後のB型、そして殺人機ともいえるC型までE-1のままだったのかが、どうもはっきりしません。とりあえず最初にFCSの変更が確認できるのは、機関砲をおろしてマイティマウス ロケットをメインとしたD型から。ここから新型のFCS、E-6が搭載されます。このE-6はF-94Cに搭載されていたE-5とほぼ同じもので、マイティマウス ロケット弾の弾道計算と発射タイミングを知るには必要不可欠な装置となっていました。

次のF-89H型ではファルコンミサイル搭載のため、それに対応したヒューズのE-9が積まれます。ここら辺から、相手をレーダーで“ロックオン”するというシステムになっていたはずです。で、最後にジーニー空対空“核ミサイル”を搭載したJ型のFCSには、Eシリーズの後から出てきたヒューズMG-12が搭載されます。E-6にジーニー発射のための装置をつけたものらしいのですが、それだけにしては、アタマのアルファベットまで変わってしまってるのが妙ではあります。ちなみに後にF-101Bブードゥーに積まれたFCS、MG-13は、これとほぼ同じ装置のようです。

という感じに、ひたすら核兵器の狂気に蝕まれるアメリカ空軍、その第一段階として戦後の全天候型迎撃機の時代を見てきました。そしてアメリカ空軍は1950年代半ばから次なる狂気の時代、全天候型迎撃戦闘機に加えて、戦術核爆撃機も含まれるセンチュリーシリーズの時代へと進むのです。
次回はその辺りを見て行きましょう。


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