■第三章 全天候型戦闘機の迷走


■迷走への助走

最初に、アメリカ空軍が本土防空に採用した全天候型戦闘機について、少し説明しておきましょう。
通常の機体でも計器飛行で夜間飛行は可能ですし、多少の雨でも雲の中なら計器飛行、それができないなら雲の上に出てしまえば問題はありませんでした(訓練を受けたパイロットなら。それ以外が雲の中に入れば大抵空間失調で堕ちる)。
台風だ竜巻だ、さらに積乱雲が団体さんでやって来た、となると話は別ですがその場合は現代の飛行機ですらウカツには飛べませんから同じ事です。つまり、全天候型と言っても他の機体と飛行条件はそれほど変わりません。

じゃあ全天候型戦闘機と普通の戦闘機と何が違うのか、というと夜間や雲中といった状況下を飛ぶだけで無く、確実に敵機を見つけて撃破できる能力を持つか否かとなります。アメリカ空軍は、この“どんな状況でも敵爆撃機の迎撃任務が行える”迎撃用の戦闘機を全天候型(All weather )迎撃戦闘機としたのです。

よってアメリカ空軍の全天候型戦闘機は、目視が出来ないような状況でもレーダーで敵を見つけ(自機のレーダーだけでなく地上レーダーからの情報もあり)パイロットをそちらに誘導、さらに兵器の照準まで機体がつけてくれて、パイロットは引き金を引くだけ、あるいはそれすら自動、という機体です。
一種の半自動操縦&照準戦闘システムであり、当時の1940年代後半〜1950年代前半の電子技術で、そんな夢のような話が可能なのかと思ってしまうところですがアメリカ空軍は当時の技術で製作可能だと判断していました。
その結果、迷走が始まります(笑)。

それに挑戦にしたのが飛行機好き変人大富豪ハワード・ヒューズがオーナーの会社、ヒューズ・エアクラフト社、通称、ヒューズ社でした。そのヒューズ社が開発していた電子装置のFCS(fire control system)、すなわち火器管制装置がカギだったのです。名前が地味なのでうっかり見落としがちですが1948年ごろに完成したこの電子装置が、その後21世紀に至るまでの戦闘機の戦いを根底から変えてしまうことになります。人と計算機とレーダーが共同して戦うのが戦闘機、となって行くのです。ただしさすがに当時はいろいろ性能が不足しており、その能力不足がさらなる空軍の迷走のきっかけにもなって行くのですが。

初期のヒューズ社による火器管制装置(FCS)はレーダーと歯車やジャイロによるアナログ(機械式)コンピュータを組み合わせて造られていましたが1950年代に入ってから真空管を使ったデジタル(電子式)コンピュータ化されます。
そして全天候型戦闘機用のFCSは改良の度に自動化が進みます。後にF-86D(L)に搭載されたタイプでは、パイロットは火器管制装置に指示されたとおりに機体を動かせばいいだけになってしまい、機体が射撃ポイントに入ったら後は引き金すら引く必要が無く、装置が勝手にロケット弾を発射するようになっていました。
この辺りは後にセンチュリーシリーズのF-102、F-106でさらなる究極形となるのですが、それはまた後で説明します。こうなると機械は絶対間違わない、人間のやる事は信じない、といった感じであり、ある意味で狂っているとしかいいようがないシステムでもあったのです。

1948年ごろに採用されたごく初期タイプのFCSでは電子式デジタルコンピュータではなく円盤や歯車の物理的なパーツを使って計算を行うアナログコンピュータだったため巨大な装置となり、能力も決して高くはありませんでした。
それでも大戦終結直後に既にレーダーとコンピュータを組み合わせた火器管制装置、現代の戦闘機には必須の装置が誕生していたと考えると、ここら辺はお世辞抜きでアメリカ空軍すごいな、とも思います。



■後にデジタル化と、計算機の心臓部が真空管からトランジスタ、さらに集積回路へと進化し、
小型化が進む火器管制装置(FCS)。
ところがその後、機体の戦闘能力の多くをこの装置に頼る電子計算戦闘の時代が到来、
以後はむしろ装置は巨大化の一途をたどる事になります。

21世紀現在の戦闘機においては、価格的にも重量的にも、機体に占める割合はエンジンに次いで高いのです。
(一部の機体では価格だけならエンジンより高い可能性がある)

写真は日本の国産支援戦闘機(要するに戦闘爆撃機だ)、三菱F-1に積まれていた火器管制装置(FCS)関係の集団。
手前がレーダー装置関係、奥がデータ処理、演算、そしてコクピットでの操作装置部分などです。

ほぼ積んでる意味が無い、積んでるのはハンディキャップとしてパイロットの精神力を鍛えるため、
と大変評判なF-1の火器管制装置(FCS)ですら、これだけの装置のカタマリでした。
後の世代でまともな(笑)火器管制装置(FCS)を積んでいたF-15、F-16、さらにはF-22、F-35などでは
もっとスゴイことになってるのは容易に想像できるかと。



ちなみに、ヒューズ社において、この火器管制装置(FCS)を開発を担当したのが、ディーン・ウルドリッジ(Dean Wooldridge)とサイモン・レイモ(Simon Ramo)のコンビでした。
戦後のヒューズ社は、この二人によって、航空用電子機器で世界最先端を走っていたのです。ウルドリッジとレイモのコンビは、1940年代後半から50年代にかけ、この火器管制装置の改良を続けました。さらに後に誘導ミサイル、ファルコンの照準システム開発を立ち上げており、この二人が戦闘機における各種電子装備のルーツを築きあげた、といえるかも知れません(ただしファルコンミサイルでは誘導部のみ担当。本体部分の開発は別チームだった)。

が、その後、変態オーナー、ハワード・ヒューズとケンカしてしまい、二人揃ってヒューズ社から独立する事になります。そこで大陸間弾道ミサイル、ICBMの誘導装置の開発をはじめ、これにもまた成功しています。ある意味、戦後の戦略空軍の中核となった技術者コンビだったと言えるかもしれません。

ちなみにアメリカの戦略爆撃理論の中心人物だったハロルド・ジョージは大戦後に軍を退役すると、このヒューズ社に天下りしており同社が軍向けの電子機器メーカーとなる大きな原動力となったようです。
ただし、こちらも後に経営陣と対立して退社してしまうのですが。

■夜間戦闘機から全天候型戦闘機へ

さて、大戦末期から戦後すぐまでは全天候型迎撃戦闘機という発想はなく、夜間戦闘機であるノースロップP-61 ブラックウィドウがその手の任務に就いてました。



■ノースロップP-61 ブラックウィドウ


レーダー搭載の双発大型機ですから戦闘機相手の格闘戦は不可能ですが、世界中からアメリカ本土まで飛んで来れるのは長距離爆撃機しか無かったので、これで大丈夫と考えられていたようです。
後に終戦後の夜間戦闘機はF-82ツインムスタング夜戦型へと移行してゆくのですが、さすがに時代遅れであろう、とその高性能化が1945年8月の段階ですでに目論まれ、新型機の競争試作の要求仕様がメーカーに通達されました。

その要求に応えた新型夜間(全天候型)戦闘機の競作では最終的にブラックウィドウのノースロップ社の機体が再び採用となり、これが後のF-89 スコーピオンとなります。
ところがこの機体は開発が遅れまくりました。そしてその間にソ連の戦略爆撃能力が大幅にパワーアップ、加えてソ連が原爆の開発にも成功してしまったので、アメリカの空にまともな迎撃戦闘機は不在のままで大ピンチ、という状況に追い込まれます。、よってアメリカ空軍は軽いパニックに見舞われるのです。

その結果、F-89に加えてロッキードF94A&B、さらにはノースアメリカンF86D&Lと全部で5種類もの全天候型迎撃戦闘機が、わずか数年の間に次々に登場するという不思議な現象が発生する事になります。現代からは信じられない位の新型戦闘機ラッシュが社長国防長官マクナマラが登場する1960年代までアメリカ空軍では続くのですが、その先鞭をつけたのがこの全天候型戦闘機でした。
各機体の詳細は後ほど見て行きますが、最初にそういう事態を発生させた時代背景を理解しておきましょう。

そもそもソ連は戦略爆撃がどういうものか微塵も理解しておらず、このため第二次大戦期を通じ、その手の機種を全く所有していませんでした。
が、ドイツがアメリカの戦略爆撃で破壊されていく過程を、もっとも肌で感じられたのがソ連軍なのです。なにせ日に日にドイツ軍は弱体化してゆき、最後には航空機や戦車の燃料にすら事欠く敵となってしまいます。戦略爆撃さえすれば、冬が来ようが雪解けで戦車が道路に沈没しようが、その間に相手はどんどん弱体化してゆき戦争に勝てるじゃないか、と気が付いたソ連の黒ヒゲ偏執狂ことスターリンは、このため急激に戦略爆撃機が欲しくなるのでした。
そこで大戦中にアメリカにドカンと戦略爆撃機をタダでよこせと要求します(ソ連視点。レンドリースはあくまでリースだがソ連は返却もせず戦後の貸し出し分に発生した料金も支払わずに踏み倒した…)。

が、最強の主力兵器になりつつあったそれらをアメリカが供与してくれるはずもなく、あっさりその要望は蹴り倒されるのです。ところが、意外な形でソ連にチャンスがやって来ます。

1944年にB-29の日本本土爆撃が本格化すると、爆撃後のトラブルでマリアナまで帰還できず、日本の北のソ連領に不時着するB-29が出てきました。するとソ連は日ソ中立条約をタテに、中立国に着陸した機体としてこれらB-29を押収してしまいます。まあ、やりたい放題ですね。
この結果、少なくとも3機以上の完全状態なB-29がソ連の手に渡り、きっと天国のマルクスさんからのプレゼントに違いない(共産国家に神様はおらん)と考えた妄想癖付きヒゲおやじことスターリン閣下は、ツポレフにこれを元にした戦略爆撃機の製作を命じます。

そしてソ連ですから、当然これを丸ごとパクってしまうのです。それが通称“スーパーフォートレスキー”ことツポレフのTu-4(Tupolev Tu-4)でした。ただしそこはソ連ですからオリジナルよりは性能は落ちた、とされます(というか当時のソ連の技術力であのエンジンと排気タービンのコピーはそもそも無理だろう)。
それでもこの機体が1947年の軍事パレードに登場、ソ連がついに高高度戦略爆撃機を手に入れたのか、とアメリカに衝撃を与えます。この事で、ソ連に対するアメリカの空の優位が一つ、消えました。

でもって1949年8月さらに決定的な追い討ちが来ます。これまたアメリカの技術をパクって、ソ連はとうとう原爆の製造にも成功するのです。こうなると、今までアメリカの専売特許だった高高度からの核爆弾による戦略核爆撃の恐怖がアメリカ自身に降りかかってくる事になります。

ソ連が核爆撃能力を備えた事によって、アメリカの迎撃戦闘機は、とにかく敵の爆撃機を絶対に殲滅するべし、という脅迫観念に縛られてゆく事になるのでした。当然、ここには我らが狂人将軍カーチス・ルメイ閣下の意向も働いていたはずです。それは空軍の予算が増えることを意味しますからね。

その結果、全天候型迎撃戦闘機においては本来の戦闘機で重視されるべき運動性は全く考えられず、とにかく強力な武装で敵の戦略核爆撃機を確実に叩き落す事だけが重視されて行きます(速攻で迎撃に向かうためにアフターバーナーによる上昇&加速力だけはあった)。
このためその武装はロケット弾の大量発射から最後は対空核ミサイルまで暴走して行く事になるのです。当然、その開発は迷走し、アメリカ空軍における戦闘機の凋落の先駆けとなってします。

なので次は、その全天候型戦闘機の迷走を見て行きましょう。


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