■第三章 全天候型戦闘機の迷走


■戦闘機の迷走その1 長距離護衛戦闘機

先に見たようなジェット戦闘機第一世代の後、1940年代末から50年代に入ってから開発が始まった戦闘機からアメリカ空軍の迷走が始まります。
これ以降、アメリカ空軍の戦闘機は大きく二つ、攻撃的な戦略爆撃機の護衛機、そして自国の上空を守る守備的な迎撃戦闘機、特に夜だろうが視界の無い雨の日だろうが飛んで行って爆撃機を攻撃できる全天候型戦闘機に二分されて行きます。

その後、戦略爆撃の高速化で護衛戦闘機が不要とされ、さらに大陸間弾道ミサイル、ICBMによる核兵器時代になり、ソ連から核爆撃機が飛んで来るはずがないとなって、迎撃戦闘機の開発も中止されます(それでも部隊運用は1980年代まで続いた)。この結果、以後は戦術核兵器が搭載可能な戦術核戦闘爆撃機という機体が主流になり、それらは全てベトナムの空で死に絶えるのですが、まずは長距離護衛戦闘機の迷走から見て置きましょう。

第二次大戦から引き続いて必要とされた長距離護衛戦闘機はこの時期において、やや特殊な位置を占めていました。
戦後の主力となった戦略爆撃機B-36はアメリカ本土から北極を超えてソ連本土まで行く気だったため、小型の戦闘機ではとても航続距離が足りませんでした。小型機への空中給油の技術も無かった当時は、その護衛戦闘機開発に四苦八苦したあげくに大迷走、最終的にその開発は放棄されてしまう事になります。

が、計画が放棄されるまで実にいろいろな迷走があったのでした。


 
爆撃機としては未だに世界最大の機体の一つであるコンベアB-36。
大戦中から開発が進んでましたが、最終的に戦後の1949年から配備が始まり、1950年代を通じてアメリカの主力戦略爆撃機であり続けました。問題は片道3000kmを超える航続距離を持つこの爆撃機をまともに護衛できる長距離戦闘機が無かったことです。このため、さまざまな迷走が始まる事になります。



迷走の極北の一つ、マクダネルXF-85ゴブリン。アメリカ空軍でF-84の次の戦闘機がF-86なのは間にこれがあったからです。

B-36の爆弾庫に搭載して行く“寄生戦闘機(Parasite fighter)” として開発され、1948年8月に初飛行。敵領空に入った後、母機から切り離されて発進し護衛任務に就きます。
よって爆撃機の弾倉に搭載するため、極めてコンパクトな、というか洒落にならん短い胴体(直進安定性がほとんど無いので垂直尾翼は上下に2枚+X型に4枚で計6枚、さらに主翼の端にまで付けた。翼端のこれはいわゆるウィングレットではなく垂直安定板である)、視界なんてほとんどないコクピットと無茶苦茶な構造になっていますが、さらに初期の機体では主翼が根元から上側に折りたたみ可能でした(後に廃止)。

ここまでくると敵地まで持って行く、という手段がいつのまにか目的になってしまっている感じで、戦闘能力はちゃんと考えてあったんだろうか、という気もします。ちなみに12.7o機関銃を機首に4門搭載出来ますが写真のアメリカ空軍博物館の展示機では外されてしまってます。

ついでに爆撃目標付近で発進、護衛終了後に再び母機のB-36に戻る以上、地上での運用は一切無しであり、よってこの機体は着陸のための脚がありません。ところが実験を開始してみると、試験母機のB-29の巨大な後部気流に巻き込まれてしまい、はげしい振動によって機首のフックを爆弾庫内の回収装置に引っかける事ができず、緊急胴体着陸に追い込まれる事態が多発します。より大きなB-36だとさらにヒドイことになるのは目に見えてましたから、当然のごとく、開発は中止となったのでした。まあ、それ以外にも問題山積みだったようですが。

ちなみに一応、後退翼機でもあり、時速1000km/h、音速一歩手前で飛ぶ予定だったとされます。実際は無理じゃないかと思いますが…。



お次はこれ、YRF-84F FICON。

XF-85ゴブリンの失敗を受けて始まったFICON計画用のもので、これまたB-36の腹の下に抱えられて敵地まで飛んでゆく機体でした。このため鼻づらに空中収容のためのフックがついてます。ちなみにFICONはFIghter CONveyor 戦闘機運搬計画の事で、先の特殊過ぎたゴブリンの失敗を受け、既存の戦闘機からの改造となってます。改造元になったのは後退翼型のF-84Fの先行試作機でした。

ところが計画そのものが迷走、いつの間にか護衛戦闘機ではなく、ソ連近くまで戦闘偵察機を運んで行って偵察飛行を行う、という話になってしまいます。長距離護衛戦闘機の話はどうなったの、というと立ち消えになった、という他はよくわからず。
どうもB-36に次いでジェット爆撃機B-47が導入されたため、高速で振り切って逃げればいいから護衛戦闘機は不要、みたいな話になったらしいのですが詳細は不明です。

さらにこのほかにもマクダネル社のXF-88という機体などもありました。これは計画が中止された後、センチュリーシリーズの2番手、F-101として復活してその後さらに迷走する、というワケのわからん機体となって行きます。F-101については後でまた見ましょう。

さて、そんな迷走を重ねる長距離護衛戦闘機ですが、さらなる迷走する分野の戦闘機がありました。
それが守備的な戦闘機、全天候型迎撃戦闘機です。
それらを見る前に必要な知識を得るため、ソ連の核爆撃機の脅威に対するアメリカの反応、一種のパラノイアとも言えるレーダー網の構築について少し見て置きましょう。

■戦闘機の迷走その2 アメリカのレーダー網

核戦争時代の防空戦の特徴は、敵を一機でも見逃したらオシマイ、という点でした。

一機でも見逃すと核爆弾によってアメリカのどこかの都市が一つ、丸ごと地上から消えるのです。
このため、まずは確実に敵の爆撃機を発見することをアメリカは目指します。ソ連の戦略爆撃機はアメリカ本土までの最短距離となる北極を越えてくる、というのは判ってましたからそちら方面の監視を固めれば理屈の上では鉄壁となります。

そこで、カナダとの国境線に(一部はカナダ国内に食い込んでいたが)Pine tree lineと呼ばれるレーダーサイトの防衛線を築き上げます。
でもって、このレーダー網の建設中にアメリカ軍関係者が思ったのは「カナダが邪魔」という事でした(笑)。できれば吹っ飛ばして海にしてしまった方が楽だ、と思ったでしょうが、さすがにそうはいかないのでカナダ政府に対しソ連への共闘を要請しアメリカの防衛ライン構想に巻き込んでしまう事にしました。そうすればカナダの国内にもレーダー網を設置でき、アメリカ本土からよりはるかに早い段階でソ連機の侵入を探知できます。

普通に考えてカナダの原野に核爆弾を落としてゆくソ連の爆撃機もいないでしょうから、カナダ政府としては別にどうでもよかったはずなのですが、アメリカに政治も経済も依存せざるを得ない宿命の国ゆえ逆らえなかったんでしょう。
この結果、1958年5月にアメリカとカナダ政府の間で共同防空司令部、NORAD設立のための協定が結ばれ、二カ国が共同で設立した統合軍という珍しい軍司令部が誕生します。これがNorth American Aerospace Defense Command、すなわち最近ではクリスマスにサンタのストーカーをやってる事で有名な北米航空宇宙防衛司令部、NORADです。
が、先にも書いたように、あくまでカナダとは土地を巻き上げる目的で組んだだけなので、その主導権はアメリカが握りました。具体的にはNORAD司令官を送り込むアメリカ空軍が主導権を持つのです。

ちなみにNORADはアメリカ本土の防空を担う最高組織に位置づけられており、緊急時には陸軍、海軍、空軍(カナダ空軍を含む)が保有する全ての本土防衛組織を総合的に指揮、管理をする権限を持ちました。なので、アメリカ空軍内に設立された3大上級司令部の一つ、防衛航空司令部(68年から航空宇宙司令部)すなわちADCもその傘下に入り、実際の兵器の運用管理はADCが、その戦闘指揮はNORADが、という感じになってました。そんなNORADですが、その重大な任務の重責もあり当然のごとく軽く狂った組織となっていました(笑)。

その作戦司令部からして異常でして、あらゆる核攻撃に耐えられるように堅固な岩盤を持つ岩山、コロラド州にあるシャイアンマウンテンの内部をくりぬいて造られており、さらにカナダにも同じような作戦司令部が造られました(ただしカナダの地下司令部施設は冷戦終了後は地上に移転、その後、休止状態、シャイアンマウンテン地下の司令部も2008年ごろから主要任務から外され、バックアップセンターや訓練施設になっている)。
ちなみにシャイアンマウンテンの地下にあったのはあくまで作戦司令部であって、NORAD本部ではないので注意。NORAD本部は同じコロラド州のパターソン(Peterson)空軍基地にあります(現在は作戦司令部もパターソン基地に移ってるはず)。

■Photo US Airforce

そのシャイアンマウンテン。この山の地下に造られた作戦司令部は1961年から5年がかりで完成しています。
一番下に見えてるトンネルが基地への入り口で、その先の山の中がくりぬかれて巨大な地下司令部になってるのです。
無茶苦茶な事を考えるなあ、と思いますね。

核兵器の高熱対策はそれほど困難ではなく、直撃でもない限り、地下10mも潜ってしまえば
土によってほとんど遮断されてしまいます。
さらに恐ろしい衝撃波も地下でなら来ないので、ワシントンDCの地下鉄の駅に司令部を造ってもいいじゃん、
と考えるところですが、冷戦期にはそれを打破するために、地上にめり込んで爆発、
地震を起こして地下施設を圧潰させる、という核兵器が開発されていたのでした。
よって核爆弾を弾き飛ばしてしまう岩山が選ばれたのだと思います。

ちなみにこれ、あと100年もすれば国宝級の文明遺産になるんじゃないかという気が。



そんなNORADによって本土防空のために運用されたレーダー防空システムがSAGEでした。
これは、全米のレーダーからの情報をリアルタイムで一元管理し、戦闘機の発進指令から、その誘導までを行う管制システムです。
Semi Automatic Ground Environmentの略でSAGEなんですが、SAGEには賢者の意味があるので、アメリカ軍特有のダジャレネーミングでしょう。ちなみにSemi Automatic Ground Environmentは直訳すると “半自動化された地面”といった所になり意味不明ですが、アメリカ空軍はその防空システムにやたらと“Ground Environment”という名称を使うので地上兵器といった意味でもあるんでしょうか。

SAGEの特徴は世界で初めて、そして現代に至るま中でも最大級のコンピュータネットワークを築いてしまった点でしょう。各レーダーからの情報が、全米22箇所(23箇所説あり)に設けられた各指令センターに送られ、デジタルで情報処理されていました。これがSAGEがインターネット技術の祖先と言われるゆえんです。

このコンピュータネットワークがSAGEシステムのキモで、マサチューセッツ工科大学(MIT)とIBMが共同でその開発にあたり、1963年ごろから本格的な可動を開始しています。まだ真空管の時代ですから、このシステムに使われたコンピュータ、IBMのAN/FSQ-7は275トンもありました。さらに安定性確保のため2台一組がお互いに補完する形で運用されたので、その運用コストは考えるだけで胃が痛みます…。


 

■Photo US Airforce

かなり初期のものと思われるSAGEの戦闘指令所( Combat Center)の指揮官用操作盤。
フラッシュ炊いちゃってるのでバカみたいな光景になってますが、通常は電気を落とした暗い室内で、
奥の白いスクリーンに、天井にあるプロジェクターから白線で地図が投影され、そこに敵機、そして友軍機の位置が示されたはず。

右手前のエライ人は空気を読まずにシューティングゲームをしてるわけではなく、あれが銃型ポインタ、指示器で、
レーザーポインタのように画面上の一点を示して指示をだします。
なんらかの光学装置だと思いますが、詳細は不明。

ついでに手前にチラッと写ってるのがレーダーモニタ盤で、こちらも操作はあのピストル型指示器でやったはず。
こうしてみると、マウスという発明は偉大だったのだなあ、と思います。



ただ、このSAGEシステムは、1960年代の技術であり、対爆撃機専用でした。このため60年代には早くも実用化された大陸間弾道ミサイル、いわゆるICBMの脅威には全く対応できないといった問題を抱え続けます。さらに、そもそも理論倒れで役に立たなかった、という話もあります。実際、キューバからの亡命のために飛んできた機体を何度か見落としたと言われており、その実用性には疑問符が付いていました。それでも1980年代前半までそのネットワークは生きていた、というからスゴイ話です。

さて、そんなシステムに支えられたアメリカの防空網ですから、そこで使われる戦闘機も当然のごとくパラノイアとなってゆきます。次回はその全天候型戦闘機、アメリカ空軍による戦闘機開発の迷走の始まりを見て行きます。


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